「ありのままに」を求める人々

CBN参加者の方から、時々パーソナルなメールをいただくことがあります。

ほぼ全ての問題は自転車に乗れば自ずと解決する

何度かメールをやり取りしているうちに、お互いに親近感を持ち、長年にわたりぽつりぽつりとメールをやり取りするのが楽しい方々がほとんどです。文通やペンパルという言葉は最早死語となってしまいましたが、そういう感じの楽しい行為です。

しかし時々、お返事を書いたりいただいたりするうちに、「うん?」と違和感を持つタイプの人々が存在します。ある時気付くのですが、それは他人とのコミュニケーションを楽しんだり、新しい価値観に接することが目的ではなく、単に「自分という存在を認めてほしい」タイプの人々です。

そうした人々はほとんどの場合、私に悩み事を相談します。私は他人の相談事に乗れるような立派な人間ではありませんが、それでも頭を捻り、相手の役に立ちそうなことを伝えてみます。すると返ってくる返信は決まって、「でも僕は・私はそういうことではないと思うのです」という内容です。

アドバイスを求めてくる人々は多くの場合、実は自分の価値を認めてもらいたいと思っているだけであって、必ずしも他人の意見を求めているわけではないのだ、ということを私は学ぶことになりました。私は彼等にとって、話しかけるのに都合のよい鏡であり、言葉のわからないペットのような存在なのです。

やがて私は返信を止めます。すると次に発生するのが、「なぜ返事をくれないのか」という反応です。さらに「私はCBNに遊びにきてやっているお客様なのに、なぜ冷たくするのか」という趣旨の言葉を浴びせてくる方もいます。ちなみにこれはメールに限らず、Twitterでも同じことがよく起こります。

私はこうした人々、双方向的なコミュニケーションではなく、鏡に映った自分に向かって「私は変化など求めていない。他人のアドバイスなど要らない。ありのままの自分を受け入れてほしいだけなのだ」と語りかけたいだけの人々の相手をするほど寂しくはないし、相手をする時間もありません。

こうして私が鏡として役に立たない、あるいは懐いてくれないペットであることが判明すると、彼等はインターネットの他の場所、例えば2ちゃんねるやTwitterで毒づき、私の悪口を開始します(笑)。最終的にはCBN全体を攻撃し始めることもあります。

こうした事例は過去に数回あったため、私はこの「パターン」に完全に慣れっこになってしまいました。これは恐らく社会心理学的に(あるいは精神病理学的に)珍しい事象ではないのだろうと思っています。

時にはこの「ありのままの私を認めてほしい」人々は、CBNの他のメンバーと問題を起こしてしまったり、CBNに投稿した自分の文章や写真を全て削除しろ、とか、自分はもう退会したのだからユーザー名を変えてほしいとか、色々な要求をするようになります。

自分で遊びに来て、さんざん場所を荒らしていって、最後は自分はそこにいたという痕跡を残しておきたくない、だから私に関する全てを消去するように、という要求ですが、私はこうした身勝手なリクエストには指一本も動かすつもりはありません。

結局そういう人々は、自分が「奉仕を受けるお客様」であるという意識を心の底に持っています。私にとってコミュニケーションは奉仕の一形態ではありえません。奉仕としてのコミュニケーションが必要なら、男性はキャバクラに、女性はホストクラブ等に行けば良いのです。

さて、私が尊敬する格闘家ブルース・リーの書籍に、面白い禅僧のエピソードが紹介されていました。こんな内容です。

お茶のもてなしの寓話:ある日、教養のある男が、禅の話を聞くために、禅僧のもとを訪れた。禅僧が話をはじめると、男は頻繁に話を遮り、「ええ、そうですね、私にもそれはあります」などと口を挟んだ。やがて禅僧は話すのをやめ、この教養のある男にお茶を入れはじめた。しかし禅僧はカップからお茶が溢れても注ぐのをやめなかった。

「もう十分です、もうそれ以上お茶は入りません!」と教養のある男は言った。「まさにその通りだ」と禅僧は答えた。「しかしあなたがまずカップを空にしなかったら、あなたはどうやって私のお茶を味わえるというのだね?」

私は自分自身がこの禅僧のような偉い人だと言っているわけではありません。ここに書かれているのは、他人と会話をしたり、他人の家に遊びに行ったり、コミュニティに参加するということは、自分のお茶を無理矢理相手に飲ませることではない、ということです。私はそのことを理解したのでした。

この記事をお届けした
CBN blogの最新ニュース情報を、
いいねしてチェックしよう!