橋下徹大阪市長が抱える本当の問題を考える

今日は政治的な話題について書いてみます(CBNのサイト運営にも少しだけ関係がありますが、自転車パーツの話題は一切ありませんので悪しからず)。

先日、橋下徹大阪市長の以下のTwitterでの発言が大きい物議を醸し、国際問題にまで発展してしまいました。ご存知の方も多いと思います。

“銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、どこかで休息をさせてあげようと思ったら、慰安婦制度は必要なのは誰だってわかる”

このツイートの「真意」やその背後にある思想には全く興味がありません。私は慰安婦制度の真相・是非・必要性の有無よりむしろ、誰だってわかる という最後の一言が非常に気になります。

橋下徹という政治家については本当に賛否両論が分かれているようです。「橋下さんカッケー!!」という熱狂的な支持者もいれば、「お 前 は 何 を 言 っ て い る ん だ ?」と訝る反対派もいます。

その橋下氏をめぐる多くの論争は、氏の個々の発言や個別の政策の是非に関するものだと思います。しかし「橋下徹なるもの」の真の問題は別のところにあり、それは上で引用したツイートの 誰だってわかる という言葉に集約されているのではないかと思います。

このツイートを目にした時、いや、俺はわかんねーよ。と反射的に思いました。一緒にされるのはとてもイヤだ、とも思いました。橋下市長が何を考え、何を発言するかは彼の自由だし、知ったことではない。しかしその「誰だって」の中に私は含めないでほしい。そう思いました。

橋下徹という政治家の最大の問題点は、「自分の価値観を全体の価値観であるかのように提示する」ということに尽きると思います。またこの結果自然な成り行きとして、自身の価値観とは異なるそれを徹底的に排除していく。

しかも適法な権力 (legitimate power) ではなく恣意的な権威 (arbitral authority) を根拠にそれを行ってしまう。その結果、憲法違反ではないかと裁判を起こされてしまう。これは政治家的でも弁護士的でもない振る舞いであり、どちらかというとタレント的な振る舞いと言えると思います。

しかし橋下氏が何を言おうがやろうが、私にとってはどうでも良いことです。慰安婦制度が必要だと発言しようが、頭にパンツをかぶろうが、それは彼の自由。しかし「公務に疲れたら 誰だって頭にパンツをかぶりたくなる」みたいなことを言われると非常に迷惑だ、ということです。

「全体主義」が「全体の利益は個人の利益より優先され、個人は全体に従属すべきである」と定義される政治思想だとするなら、橋下氏の政治思想も全体主義に属すると言って良いでしょう。そしてここでの「全体」や「全体の利益」が「橋下徹という一個人の価値観」によって定義されている以上、氏の政治思想は民主主義や個人主義の対立概念としての「権威主義」に根ざしてもいます。

自転車のパーツを組み付ける時にトルクレンチを使う人、使わない人、どちらもいると思います。数年前のことになりますが、CBNではこのことを巡ってレビュワー間で戦争が起こったことがあります。私はどちらであってもいいと思いますし、使うか使わないかは各人の自由。ただ、自分の選択を絶対的なものとして他人に押し付けたり、強要してはいけないと感じています。

“繊細なカーボン製品を扱っている時に、壊さずに組み付けようと思ったら、トルクレンチが必要なのは 誰だってわかる
“毎日何百kmも何日も命をかけて走っているときに、勝利しようと思ったら、ドーピングが必要なのは 誰だってわかる

従軍慰安婦とトルクレンチ、ドーピングは同じ水準で論じられるものでないことは承知していますが、上の二つの文章は橋下氏のオリジナルと論理の構造はほとんど同じです。こういうことを言う人を前にすると、私の意識は防御体制になり、相手を攻撃性の高い危険人物として認識してしまいます。

誰だってわかる、という言葉は強力でとても便利そうですが、使い方を間違えると大怪我をするドスのようなものだと思います。そしてドスばかり振り回して小刀を扱えない政治家が大物であるとは、私にはとても思えません。