世の中では筋トレが流行しています。空前の筋トレブームです。私はブームとは関係なく筋トレをやっていますが、なぜこんなに筋トレが流行しているのかについて、哲学者の千葉雅也氏が新聞記事で非常に面白い論考を展開していました。
義務教育における体育の目的
この部分は本当に共感しました。
心と身体を支配し、人間を従順な存在に仕立て上げることを規律訓練、ディシプリンといいます。これはフランスの哲学者ミシェル・フーコーの概念で、基本的に日本の体育の授業はこれに当たる。たとえば運動会の行進自体に意味はなくて、要は「お前らを支配するぞ」ということを示している。義務教育の目的は「いかに権力に逆らわないで従順に働く主体をつくるか」であって、体育はまさにそういう抑圧的な身体教育をやっている。だから僕にとって、筋トレも含めてスポーツをもう一度やろうという動機は、権力による身体の支配に対して、いかに自己準拠的な身体を取り戻すか、ということにあります。
私も学校の体育の授業が嫌いでした。最近はどうなのか知りませんが、小中学校の体育の授業は純粋に身体を鍛えることの目的や意味、人生におけるスポーツの意義や楽しさを教えてくれるような内容ではなく、千葉さんが書かれているように「権力に対して従順な主体をつくる」ことに主眼が置かれていたような気がします。つまり「兵隊をつくる」ことが目的。
小学校における「前にならえ!」。あれが日本の義務教育における「体育」のはじまりとなっているような気がします。この「権力に対して従順な主体をつくる」という発想は、体育の授業以外にも及んでいると思います。
私が中学生の時は髪の毛を一定の長さより伸ばしてはいけなかった。しかも厄介なことに、それは具体的に◯cmと規定されているわけではなく、髪が長いかどうかの判断はひとえに教師たちの恣意的な判断に委ねられていました。結果、ほぼ全員が丸刈りを半強制です。髪の毛を染めるなんてのもご法度です。
最近はだいぶ事情が変わったとも聞きますが、高校野球では今でも全員が丸刈りなのを見ると、2019年にもなってこの国はまったく変わってないな、と思わされます。
抑圧と権力から逃れている自転車という趣味
さて、自転車は私にとってはじめての「心から楽しめる運動」でした。安いクロスバイクを買って乗った時のあの衝撃は今でも忘れられません。スポーツタイプの自転車はこんなにも軽やかなものなのか。気がつくとタイヤをスリックにはきかえ、レーパン・ジャージを着たロードバイカーたちに次々と背後から追い越されていくなか、そのクロスバイクで奥多摩の坂を登っていました。
自ら進んで体力的にキツいヒルクライムをやるなんて、それまでの自分の人生ではありえないことでした。
やがてMTBに乗るようになり、レーパン・ジャージでロードバイクに乗るようにもなりました。
しかし私はレースには参加しませんでした。レースは、きっと楽しいと思う。競争というのは結果がわかりやすい。1位でも、10位でも100位でも、集団の中の自分の位置が客観的にわかる。頑張ったら成績が伸びる。次はもっと頑張ろうという目標もできる。レースを見るのは好きで、プロロードレースの中継もよく見ます。レースで頑張っている人たちは尊敬しています。
それでも私自身にとって、レースの世界は遠い。全てのレースがそうではないと思うのですが、どうしてもそこに義務教育で受けた「権力に対して従順な主体をつくる」という「ディシプリン」が見えてしまう。私が自転車を好きになったのは、自転車がそういう「ディシプリン」から遠く離れたものだったからです。
義務教育でもっと純粋にスポーツの楽しさを教えてもらっていたら、私もレースに参加していたのかもしれません。その意味で、本当に楽しんでレースに参加されている方はうらやましいとも思います。
レース以外の世界でも見られる権力への従属欲求
権力に対して従順な主体は、その権力を強化するために自らが権力的な振る舞いをはじめます。
Twitterを眺めていると、たまに「あいつの自転車はカッコ悪い」みたいな話題で盛り上がっているのを見かけます。他人の自転車がカッコいい、悪い、というメッセージを発信する精神の根底にあるのは、何かしらの「見えない権力」に対して進んで従属するマゾヒストな精神性であるように感じます。
そこでは何かしらの見えない「美の基準」というのものが無意識に設定されていて、そこから外れた自転車をカッコ悪いと言ったりする。そういう人たちは、義務教育ですっかり飼いならされ、洗脳されてしまった不自由な人達であるように思えます。
私は自転車趣味にそういうものを持ち込みたくないので、そういう議論には一切加わらないし、そういう話題も詳しくは読みません。
他人の自転車のことをあれこれ言うこと以外にも、自転車の世界に何らかの「権力」を持ち込もうとする人間は少なくありません。こうでなければならない、こうあるべきだ、と最初から決めてしまい、それに合致しない他人の言動に制限を加えようとする。従わない者は排除する。それは隠れた権力欲求であり、私が自転車に求めているものとは本当に遠い。
自転車は私達をそういう「権力」から解き放ってくれるものなのに、もったいないなぁ、と思います。
自転車趣味は裏切らない
さて、上で紹介した哲学者・千葉雅也氏は、「筋肥大には個人差がある」という残酷な現実についても触れられています。よく世の中で「筋トレは裏切らない」などと言われていますが、実際はいくら頑張ってもある程度以上の筋量を得られない体質の人がいる。個人差がある。筋トレは、実は裏切ることがある。平等でもない。
しかし自転車趣味は、その意味で筋トレを超えているところがあると思っています。自転車レースではなく、自転車趣味。自分で自転車の仕組みを理解して、メンテできるようになって、組めるようになる。自分の精神で理解した内容を実践して、自分の力で動かす。
そうやって得られる経験・体験は誰にも開かれた平等なものであり、誰にも奪われることはないし、失われるものでもない。筋トレを頑張っても、筋肉がたくさんつかない人もいる。サボれば筋肉も落ちていく。でも自転車で得られる経験は、量の大小で測られるものではない。しかも失われない。
自転車趣味は筋トレを超えるものであります。そして、それは見えない権力から最も遠い趣味ではないか、と思うのであります。