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都市と自然と自転車と:解剖学者・養老孟司の本に学んでいる、あるサイクリストの雑感

解剖学者・養老孟司氏の思想と、一介の自転車乗りであり日曜ハイカーでもある私。私はなぜ養老氏の本に夢中なのか…という、少し誰得なテーマについて書いてみました。しかし、オフロードサイクリングやバイクパッキングに興味がある方、あるいは都市型の生活やインターネット社会に何だかちょっと疲れている、という方は、興味を持ってくれる内容かもしれません。

カマキリ

サイクリングロードで見かけたカマキリ

とりあえず下の「サイクリングあるある」をお読みいただき、何か面白そうだ、と思った方だけ読み進めていただけると幸いです。何かが伝わってくれることを目指して、考察を進めていきます。

「サイクリングあるある」とそれに対する反応

サイクリストの皆さんは、次のような経験をしたことがあるのではないでしょうか。

  1. 舗装路に穴が開いていて大きい衝撃を受けたり、タイヤがハマってパンクした
  2. 道路にクギやガラス等の破片が落ちていたせいで、パンクした
  3. リードのない犬に追いかけられ、吠えられたり飛びつかれたりした
  4. 道路で、いきなり子供が飛び出してきた
  5. サイクリングロードで、道を横断中の虫(ミミズやバッタなど)を轢いてしまった
  6. 山奥の道を走っていたら、飲料の自動販売機がなくて困った

これらの経験・事象には、ある共通点があります。それは、一言で言い表すことができると思うのですが、それについては後で述べたいと思います。

その前に、上で挙げたそれぞれの経験について、次のような感想を持ったり、具体的な対応をされたことも、あるのではないでしょうか(※ない人もいるかもしれません)。

  1. 道路が穴に開いていては危険だ。想定外だ。自治体に連絡して、修理してもらおう
  2. 道路にはクギやガラス片が落ちていてはいけないのだ。とりあえず他の人が被害を受けないように、端に寄せておこう。あと、誰に文句を言おうか?
  3. 犬を散歩させるならリードを付けなければダメじゃないか。動物を飼うのなら責任を持って管理してほしい
  4. なぜ子供に交通ルールを教えないのか。教えたけれど理解していないのか。あんな子供を野放しにして、親は何をやっているんだ
  5. なんでここにミミズがいるんだ。ここは東京だぞ!
  6. なぜ自販機がひとつもないのだろう。このへんに1つくらい、あっても良さそうなのだが。いや、あって然るべきではないか。山の中で遭難したら困るじゃないか

都市(脳化社会)と自然

最近、解剖学者の養老孟司氏の著書が面白く、そればかり読んでいます。養老氏の思想を「要約」することは、私にはとてもできそうにないですし、微妙な内容を含んでいるので、そういうことはやらないほうが良いのですが、誰にもわかるはっきりしたテーマとして「脳化社会と自然」という対立構造が、よく語られます。

「脳化社会」とは何か。それは、私達が住んでいる都市(現代社会、あるいは部分的には共同体と言い換えても良い)は、「脳の構造」に対応しており、都市は脳の構造をそのまま外界に反映・投映したようなものであり、その結果、脳の大きい機能の1つである「意識」の中に、私達は住んでいるとも言える、ということだと思います(というのが私なりの理解)。

東京ビッグサイト

建造物は「脳内の設計」を現実世界に投影したもの。ピラミッドも万里の長城も、東京ビックサイトも同じである

そして、そんな「脳化社会」では、無駄なもの・想定外のものが徹底的に排除される。たとえば東京・丸の内のビル街には木の根っこなどはないし、それに足を引っ掛けて転ぶこともない(ように設計されている)。ゴキブリは、とりあえずいない前提で作られている。道路も完全にフラット。

効率的で、安全で、快適で、想定外の事故のない社会。人間の脳が、それを作った。そして、そういう都市の構造は、人間の脳の構造に対応している(このあたりは解剖学者ならではの唯一無二の視点であって、普通の哲学書や社会学の書籍よりも抜群に面白いところです)。良し悪しは別として(たぶん)、人間はこういう「脳化社会」をつくってきた(それは日本に限らない)。

一方で「自然」というものがあります。それは、丸の内のビルのエントランスに植えられている木や観葉植物のことでは、とりあえずない。そうではなく、足を引っ掛けたら転んでしまうような木の根のある山だったり、クマだったり、シカだったり、ゲリラ豪雨や鉄砲水だったりします。東日本大震災も、阪神大震災も、誰のせいにもできない「自然」です。

木の根

自然は脳が設計したものではない(人工的に作られた自然はあるものの)

そういう「大自然」の他にも、たとえば「人間の子供」も養老氏は「自然」と仰っていて、それが面白い。子供というものは、制御できない。ああしろ、こうしろ、と言っても、その通りに動いてくれない。将来は芸能人になるのか、犯罪者になるのかもわからない。なるようにしかならない。それが「自然」。

日本の少子化も、「都市の脳化」が原因ではないか、とのこと。これも確かに納得できます。なんでこんな満員電車にベビーカーを持ち込むのだ、という声もそうですし、電車の中で泣き出す赤ん坊は、想定外で、制御しようのない自然のようなもの、となると、都市=脳化社会に慣れきった都会人は、そういう存在をどこか外側に排除したい、という気持ちを持つ。

脳化としての自転車

ここで話を自転車に戻してみます。私は自転車が好きで、いろいろな自転車に乗るわけですが、自転車というのも効率の権化であり、反「自然」的に成立してきた乗り物だと思います。タイムトライアルバイクなどは、その最たるものかもしれません。脳の構造に対応しているかどうかは私にはわかりませんが、とりあえず無駄な要素がほとんどありません。これもまた、脳内設計図の投射。

タイヤが取られるような謎の段差がある道などを走っていると「この道危ない、これは誰かが事故ってもおかしくない、役所に連絡入れたほうがいいのかな」と思ったり、むかし河川敷でサイクリングしていた頃は、なんでこんなにミミズが道を横断しているんだろう、轢かれるほうも可哀そうだし、轢くほうの俺も良い気分ではない。とよく思いました。

サイクリング中に、こんなものがあってはいけないだろう。という考えは、養老氏の言う「脳化社会」の住人になってしまっていることを意味するのでしょう。自転車自体が脳の外化であり、もともとは穴のない道で走ることを前提としています。サイクリストの意識が「都市的」になるのは、その意味で宿命のような気はします。

しかし、轢いてしまった虫のことを意識してしまうぶん、自動車やモーターサイクリストよりはほんの少しだけ自然に近いのかもしれません。風を顔面で感じることもあれば、花を愛でることもあるでしょう。養老孟司氏は「花鳥風月」という言葉でも自然を形容されますが、花鳥風月を求めてサイクリングに行く人々は、もちろん多い。

なぜ私は自然に向かうのか

自分でも不思議なことですが、私は近頃、都市を離れ、自然のほうに出かける機会が以前よりもだいぶ増えてきました。登山(ハイキング)がその傾向に火を付けたのですが、林道や廃道、オフロードを求め「意識・脳化の権化」であるかのような自転車を持っていく機会も、増えています。

何故なんだろう、とよく思います。都会だったら、基本的な安全はあり、立派な舗装路に穴が開いていたとしても、走行中にそこに引っかかって大怪我を負ったら、それは行政側の管理責任の問題だから、補償を求めれば良い。そんな想定外のものは都市に存在してはいけないのだから、責任を取れ。都市の中に「自然」を発生させるな。というのが、たぶん普通の都市人間の発想です。

一方で、もし私がグラベルバイクで、Google Mapや国土地理院地図にも乗っていないような廃道でクマに襲われて死んだとしたら、ああそりゃしょうがいないだろ、自業自得だろう。自然の中に行ったのだから、それは仕方ない。と言われるでしょう。

クマ

そういう自然の中に、私はなぜあえて行くようになってきたのか。多くの人のように私もまた、都会の生活に退屈してきているのは明らかです(筆者は東京都区部在住)。都会は便利で、快適で、すべてが満たされていると言っても良い生活です。なのに、不便で危険な自然のほうに向かう。

とはいえ、私が向かう「自然」も、完全に制御が効かないような、生存がすぐに脅かされるような過酷な自然ではありません。かなりの程度まで、管理されている自然です。道のないところは、結局のところ自転車では走れません(”Paths less pedaled/travelled”、つまり「あまり走られていない道」がメインになるとしても)。登山にしても、整備された登山道を楽しむ程度です。

しかし養老氏の本を読んでいて、そういう「小さい自然」の楽しみ方も、そんなに悪いものではないのではないか、と思うこともあります。というのも、全く制御しようのない自然ともなると、その時点で人間とは無関係のものになってしまうから、そもそも入って行かない。

そこで「自然と折り合いを付ける」という「手入れという思想」が浮上したりもするのですが、それは話が長くなるのでまた別の機会に(これは「日本的な里山」と関係があります。日本の里山は、世界的にも珍しいものらしい。あと女性のお化粧とも関係が。化粧前の女性は「大自然」というお話も)。

秩父や奥武蔵(埼玉)、奥多摩(東京)に向かう電車の中で養老氏の著書を読んでいると、1〜2時間半があっという間にすぎます。自転車を組み立て、駅から10分も走ると、自販機はもうなく、パンクしても行政は責任を取ってくれないような道が現れます。

とても小さい冒険です。しかし「意識の囚人」であることから、少しだけ自由になれるような気がします(気がするだけで、逃れられることはないとしても)。

石尾根

転ぶと、身体が痛むことさえ、面白い(都会で穴ボコに落ちて落車したら腹が立つだけかもしれないけれど、オフロードでコケるのは面白いから不思議だ)。

自然は「いいね」をしない

あと、自然の中にいておもしろいのは、そこには「いいね」がないところです。他人の評価が関係ありません。ミスをしたら勝手に転ぶだけ。自然の中に来たからといって、自然が歓迎してくれるわけでもなし。

近年は、LINEで集団いじめにあった小学生が自殺するケースもあるそうですが、そうしたことが起こってしまう理由は「インターネットの外にも世界がある」ことを忘れてしまっているからだ、というようなことも、養老氏の本で知りました。都会の道路における穴ボコのように、ちょっと変わった子供が集団から排除される。ネットは言うまでもなく脳化社会です。

社会的に評価されると、それは人の活力になります。だから、評価が高いことは、良いことではある。一方で、低評価で死んでしまう子供もいる。

しかし山に行けば、そこには「既読無視」も「いいね」も「低評価」もない。自然はいつも人間をガン無視、完全スルー。聞こえてくるのは、岩・石・砂・風の音、鳥の鳴き声くらいです(鳥は「ヤバい奴キター!」と騒ぎますが)。スマホの電源を切れば、GAFAもFANGもありません。

養老孟司の世界に入る

と、この記事はちょっとまとまりがなくなってきました。しかし、ここまでお読みいただいた方で、何か「思い当たる」と思った方には、養老孟司氏の著書をおすすめします。氏の著書はたくさんあるのですが、最初はエッセイ的に読める新潮新書の「壁」シリーズが入りやすいと思います(ハマった方はたぶん全部読むことになるでしょう。どれをどの順番で読んでも面白い)。

それらを読んで氏の思想にもっと深く触れたいと思われた方は、「唯脳論」や「形を読む」を手に取ることになるかもしれません。こちらは学術的な内容ですが、養老氏の「脳化」に関する思想がどのように生まれてきたのかが、ちょっとだけわかったような気になりました。

本を読む習慣がない、という方は「聴く読書」Audibleにもいくつか著書があるので、こちらから入るのも良いでしょう。これは、朗読者は養老さんではありません。そして、文字ではなく音声です。何故、著者以外の人が読んでも、そして「文字」ではなく「音」で聞いても私達は「言葉」を理解できるのか? それもまた、養老氏がよく取り上げられる、非常に面白いテーマです。

▼ この記事との関連で、服部文祥さんという登山家についての拙記事もご紹介しておきます。人間による制御の対象ではないような自然に入っていき、そこで暮らす、という、この記事で書いたことよりもはるか先にあるハードコアな世界です(この方は、都会で働いているけれどもエレベーターには乗らないらしい)。この方の思想も、養老氏のそれと無縁ではないような気がしています。

サバイバル登山家・服部文祥を読む:人間の動物性と身体感覚を取り戻すための「生き方実験」
今年は服部文祥(はっとり・ぶんしょう)という著名な登山家の著書とドキュメンタリー動画にハマった1年でした。一部の(特にオフロード系の)サイクリストの方々も興味を持たれるのではないかと思い、本記事で氏の活動と著作、YouTube動画をご紹介し...
著者
マスター

2007年開設の自転車レビューサイトCBNのウェブマスターとして累計22,000件のユーザー投稿に目を通す。CBN Blogの企画立案・編集・校正を担当するかたわら日々のニュース・製品レビュー・エディトリアル記事を執筆。シングルスピード・グラベルロード・ブロンプトン・エアロロード・クロモリロードに乗る雑食系自転車乗り。

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