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サバイバル登山家・服部文祥を読む:人間の動物性と身体感覚を取り戻すための「生き方実験」

今年は服部文祥(はっとり・ぶんしょう)という著名な登山家の著書とドキュメンタリー動画にハマった1年でした。一部の(特にオフロード系の)サイクリストの方々も興味を持たれるのではないかと思い、本記事で氏の活動と著作、YouTube動画をご紹介したいと思います。

サバイバル登山家

服部氏は「サバイバル登山家」として知られています(後述しますが、この「サバイバル」という言葉は誤解されている部分が多いので注意が必要)。最初は正統的な登山家として、高い山としてはK2に登頂、以後は「最小限の装備と米・調味料のみを持ち、登山道を使わずに山に入り、釣ったイワナや狩ったシカを食べながら山で数日〜数週間暮らす」というようなことをされています。

氏は1969年生まれの52歳。近著「サバイバル家族」(2020)ではそんな服部氏の人生の変遷が、神奈川県でのご家族との暮らしを中心に綴られた読み物でした。服部氏の著作としてはデビュー作「サバイバル登山家」(2006)が有名ですが、登山にあまり興味がない方にでも「サバイバル家族」は楽しく読めると思います。

「サバイバル登山」の思想やそこに至るまでの過程については、ちくま文庫の「増補 サバイバル!: 人はズルなしで生きられるのか」が充実していると思います。

サバイバルの意味

服部氏の代名詞とも言える「サバイバル」という言葉は、著書を読まないとその概念を正確に理解することはできません。文明の利器に頼らずに山の中で活動する、ことが「目的」ではなく、半野生の中で人間の失われつつある身体感覚を取り戻し、生存能力を確かめるための「手段・方法論」として、可能な限り装備を切り詰めること、が「サバイバル」と呼ばれているようです。

そのため火を熾す時、氏はライターを普通に使っています。持ち込んだ砂糖とミルクパウダーを入れたチャイを飲み、食料は現地調達(イワナ・シカ・山菜・キノコなど)が基本ながらも、時には山中ですれ違った登山者に食料をわけてもらったり(時にはわけてもらえなかったり)、手に入ればカップラーメンを食べたりすることもあるようです。

氏の著書を読んでいて面白く感じるのがそうした「厳格でないところ」です。「カラクリ」のわからない電子機器は持ち込まない、としながらもラジオは天気予報や娯楽のために使ったり、ファストフードを毒だらけの「人間のエサ」としながら山中ではお菓子を渇望する様子も。こうした心の振幅、限界に直面しつつある時の様子が人間的で面白い。

しかし、想像に難くないことですが、YouTube動画(服部氏は2020年から自身のチャンネルを開設している他(編集が素晴らしい)、雑誌「Fielder」のチャンネルにも多数の動画があります)では「焚き火するのにライターを使うなんてどこがサバイバルなんだよ、米とか食料も持ち込んでるじゃないか」という視聴者からのコメントをよく目にします。

服部氏にとっての「サバイバル登山」は、ライターを使わないとか、食品を一切持ち込まないといったことは「目的」ではなく、「人間の中の動物性」を取り戻し、可能な限りケモノに近付くための「手段」として削れるものは削るという考え方で、「エクストリームな行動様態」は手段であって目的ではないのだと思います。だから、原理主義的な考え方の人には理解されません。

この点の理解は、アメリカの自給自足集団アーミッシュの生活が手がかりになりそうな気もします。アーミッシュには電気の使用を拒否するグループもあれば、許容するグループもある。その基準は「自分達のアイデンティティを損なわないものなら可」ということらしく、服部氏の「サバイバル」も氏自身のアイデンティティを保てる最低限の装備を持つ、ということのように思えます。

氏の「サバイバル登山」は、「趣味」ではなく「生き方」で、狩猟活動にしても「肉を食べる以上、殺生を背負うべきだ」という考えから始まったようです(しかし注意したいのは、いわゆる「いただきます」や「食べ物に感謝」という「食育」的な文脈での話でもなさそうなところです。氏の思想はもう少し複雑に見えます)。

誰にも真似できる生き方ではないと思いますが(筆者もニワトリをこの手でシメて食う、ということはできそうにない)、得体の知れない食品や、停電になればただの箱と化すエアコンに支えられている現代社会の中で次第に失われていく人間の動物性、身体感覚、人間が生きるために何処かで誰かが行っている殺生、などについて認識を新たにすることには大きい価値があると感じます。

それにしても現代は服部氏にとっては生きにくい世の中ではないかと思います。そこで焚き火をしていいのか、街にいれば食べ物には困らないのにシカを殺すなんてひどい、しかも相手は丸腰なのに銃を使うのは卑怯じゃないか、イワナだって減ってしまうじゃないか、等々のコメントが動画には見られます(氏の著書にはこれら全てに対する答えが既に書かれていたりします)。

氏の活動や著作では近代の人間が忌避してきたもの、オブラートに包んできたもの、社会権力が共同体の存続のために抑圧してきたものが提示されているわけなので、そういう反応が起こるのは当然でしょう。無意識の恐怖だったり、反対に心の底では魅力や憧れを覚えていながらも、自分には1mmも近付けない世界であるように見えることからの嫉妬、も根っこにあるのかもしれません。

でも「サバイバル登山」をしなくとも、「動物としての人間を取り戻す」生き方は、誰にもそれぞれのレベルで始められるのではないでしょうか(服部氏の「サバイバル登山」自体が変遷に富んだプラグマティックな(実利主義的な)活動で、「登山道を使うのは登山ではない」としながらも時には登山道やタクシーを使ったり、ポテチを食べたりもしている。そのあたりがまた魅力)。

こんな生き方をしている人がまだ現代に存在しているのか、と驚かされた1年でした。立山の雷鳥よりも、こういう生き方をしている人のほうが早く絶滅してしまうのではないか(こういう生き方をする人が消滅してしまう世界は、あまり良くないと思います)。

服部氏と自転車

さて、服部氏の世界観に触れるにつれ、私の中で「この人は自転車のことをどう思うんだろう」という疑問が湧きました。産業革命を、そして「用意された道」を前提とする自転車という乗り物は、道具を使わないフリークライミングを良しとし、道なき道こそ価値があるとする氏の目にはどう映っているのか…

氏は、海外(インド・ベトナム・マダガスカル・アイルランド)での自転車旅行の経験があるようです(まとまった著作物にはまだなっていないようなので是非読みたいところ)。また登山でのアプローチにも、自宅から空港まで自転車を使うことも(「サバイバル家族」では息子さんとの沖縄自転車旅行の話もあります)。普通に自転車が好きらしい(通勤でも使われている)。

そして想像に難くないことですが、氏は電動アシスト自転車は認めていないらしい(著書のどれかに書いてあった)。

サイクリストの中には、E-BIKEを認める人・認めない人の対立が見られることがあります。私のような適当な人間からすると、電動だろうが人力だろうが楽しければどっちでもいいんじゃないの、喧嘩するようなことじゃないだろう、と思えるのですが、服部氏の著書を読んでいて、あ、そういうことか、と気付かされたことがあります。

「趣味・レジャー」として自転車に乗る人にとっては、E-BIKE(電動アシスト)はアリなのでしょう。一方で自転車に乗ることが「人間の身体能力を試し、身体感覚を取り戻すための生き方」となっている人(もしくはそちらの傾向が強い人)にとっては、E-BIKEはナシ。ということなのでしょう。

近年のキャンプ・アウトドア活動の流行や、自転車の世界におけるグラベルバイキング・バイクパッキングの流行は「より自由になりたい・解放されたい(でも、何から?)」という現代人の欲望と深い関係があると思いますが、その欲望は、程度の違いはあっても(その違いは巨大すぎるとしても)服部氏のそれと通底するところもあるのではないか、と思ったりしました。

万人におすすめできる著作群ではありませんが、服部氏の本、興味を持たれたごく一部の方は、手に取ってみては如何でしょうか。

著者
マスター

2007年開設の自転車レビューサイトCBNのウェブマスターとして累計22,000件のユーザー投稿に目を通す。CBN Blogの企画立案・編集・校正を担当するかたわら日々のニュース・製品レビュー・エディトリアル記事を執筆。シングルスピード・グラベルロード・ブロンプトン・エアロロード・クロモリロードに乗る雑食系自転車乗り。

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