GlennGould(守衛のおじさん)です。私の自転車との出会いについて書いてみたいと思います。全くの私事、しかも多重脱線の繰り返し。暫し、ご容赦ください。
小学5年、中古自転車を買ってもらう
1972年。
となり町の自転車店で親に中古自転車を買ってもらったのは小学校5年生の夏でした。私の家族は6歳上の兄と私と母の3人家族で、家計を支えるのは地元の町工場で働く母親でした。つまり母子家庭。借家住まいで結構な乏暮らしでしたので、自転車が欲しいなどと言えるはずもありませんでした。とはいえ、
自転車があったらなぁ~
という心の叫びが親に伝わっちゃったんですかねぇ。ある日、
中古なら買えるから
という話になり、ついに、自転車店に行くことになったのでした。
買ったのは片倉自転車工業製のシルク号。いわゆる軽快車。
このシルク号は、パールホワイトのスタガードフレームに26インチのタイヤ、荷台、大きめの砲弾型ライトがついて、外装三段変速。至ってシンプルな自転車でしたが、私にはとても立派な自転車に見えました。
これが5000円で買えるなんて!もしかして母親が先回りしてコレに決めていたのでしょうか。もちろん、パールホワイトとかスタガードフレームなんていう言葉は、後に仕入れた知識であり、小学校5年の小僧が知っていたはずもありません。この自転車のシートチューブ中央付近には誇らしく、
≪メルボルン、ローマ、東京、メキシコ、オリンピック連続出場車≫
と書かれた小さなステッカーが貼られていた、と記憶しています。重量は優に20kgを越えていたことでしょう。
片倉自転車工業とは
世界遺産 「富岡製糸場」 で知られる片倉工業は、1954年に片倉自転車工業を設立し、特に競技用自転車で有名だった老舗で、一般向け自転車メーカーとしてもメジャーな存在でした。
私の記憶の中にはっきりと刻まれた ≪メルボルン、ローマ、東京、メキシコ≫ という一連の言葉。子供心に、片倉ってすごいんだ、と思ったものです。
しかし後年、時々目にする片倉と五輪の関係というのは、「東京五輪ではイタリアのチネリとともにシルク号が…」 的な内容であり、東京五輪以前にシルク号が使われていたのかどうか、はっきりしないのです。となると、あの小さなステッカーに刻まれた一文は?私の子供時代の記憶、正しかったのかどうか??
あれから35年が経った2008年、えい出版から「ロードバイクライフvol.4」が出版されています。この中で、片倉シルクの流れを汲むビルダー、荒井正氏(絹自転車製作所)の解説文「鉄フレームの歴史と日本の自転車工業」には、
…大沢鉄男は、片倉自転車所属。1956年メルボルンオリンピックで12位、1960年ローマオリンピックで19位。この時代に世界を相手に勝負したマシンが片倉工業の日本製マシン「シルク」だった。…
とあります。この記述でも少々、微妙ではありますが、私の記憶はどうやら、正しかったのではないか、と思っています。
星への興味に誘われ、深夜徘徊の道へ堕ちる
この26インチ車に跨り、近場ではありますが、あちこち走りまわったのは言うまでもありません。小学校4年から6年までクラブ活動で天文クラブに入っていたことも手伝って、星を見に行くと言っては出かけ、
「自転車で真っ暗な夜道を徘徊する」
ということをおぼえたのもこの頃です。同じく天文クラブ員だった隣のクラスのK君も時々、付き合ってくれました。なお、田舎の夜道は本気で真っ暗。
実は、ただ夜道を徘徊していた、というわけでもなく、ちゃんと夜空を見上げていたことは確かです。
お陰で、主だった星々の配列は小学校のうちに憶えてしまいましたし、図書館にある天文関係の本などは片っ端から隅々まで繰り返し読んだので、太陽系から最も近い星までの距離とか、光速度とか、太陽や月までの平均距離、金星の最大光度などなど、今、自分が記憶している天文に関する主要な数字は殆ど、小学生の時に憶えたものです。
どんな子供でも、興味を持った時の集中力と言うのは、おとなには真似が出来ませんよねぇ(笑)。
天文への興味は今に至るまで細々と続いていますが、1978年、高校2年の時には、自作の低倍率ハンディサイズ望遠鏡を作り、コレを持って時々、自転車で深夜徘徊し、星雲などを眺めていたのでした・・・。
豪華絢爛ジュニアスポーツ車隆盛にも微動だにせず
小学5年に戻ります。
1972年と言えば、いわゆる
「ジュニアスポーツ」
というカテゴリの自転車の隆盛が始まった頃。
ダイナモ発電機では到底電力が足りず、単一乾電池を6本も積んで動作するような、ウインカー付き豪華テールランプ、というか電飾箱、というか光る巨大弁当箱(一般呼称は「フラッシャー」)。
…を抱き込んだ荷台を持ち、ウインカー装備の角型二灯式前照灯、機械式ディスクブレーキ、1歯毎に間引かれた激坂用巨大ローエンド・スプロケ、やたら華美な造形の豪華チェンカバー。
果てはパーキングブレーキやクルマのそれを模したシフトレバーまで備えた、コテコテかつ超重量級の「元祖ガラパゴス」とでもいうべきジュニア「スポーツ」自転車が流行した時代です。
さらには、オーバルギヤ(シマノ・バイオペースやROTOR-Qの祖先)や、低転がり抵抗の三角断面「トリアルタイヤ」、シマノ・インデックスシステムの先取りだった「ポジトロンシステム」など、今にして思えば何でもありのジュニアスポーツ。
そういった物々しい自転車に乗る級友もいたりして、それを触らせてもらったりしては、皆、
「すっげぇ~」
とか言っていたわけです。パーツメーカーはジュニアスポーツ車を題材にして、新技術を投入して試していたという側面もあるのかもしれませんが、それが現在のレーシングパーツにも少なからず影響を与えています。ジュニアスポーツ車と言うカテゴリは典型的なガラパゴス化の道を辿ったのですが、そんな中で先につながる技術をちゃんと仕込んでいたんですねぇ。
ジュニアスポーツ車の芳醇(いや過剰)な世界・・・じっくりご堪能ください
参考 【ジュニアスポーツ自転車の進化】フラッシャー自転車・多段変速自転車の歴史を調査!当時の広告がおもしろい!
もちろん、あの当時で4万円ほどもするその手の高級自転車など私が買ってもらえるはずもありませんでしたが、何故か、欲しいとも思いませんでした。私は5000円で買うことが出来たシンプルな片倉シルクの中古軽快車に熱中し、大満足でした。
我が家はその後も貧乏だったので、新しい自転車を買うなどという発想もなく、乗れるうちはこれでいいや、ということで、シルク号には高校2年の春までお世話になりました。5年半ほどしか乗らなかったわけで、もう少し大事に使ってあげれば良かったかなあ、と今になって思います。
田舎の小学校の斬新な取り組み「自転車運転免許証」
そういえば私が通っていた小学校。
「自転車運転免許証」
なる制度が存在し、学校で実施される自転車走行実技試験に合格すると「自転車運転免許証」が交付される、という小学校でした。もちろん、持っていなくても乗れましたが。
道路の左側を走る、とか、周囲をよく見る、発進時や右左折時は後ろも確認する、といった基本から、フルブレーキングのやりかたまで、現実世界での実際の乗り方をちゃんと小学校時代に教えてもらう、という機会があったのです。
今にして思えば、何という先進的な小学校だったのでしょう。子供のころに実体験から学ぶというのは本当に重要です。その先の人生における安全走行を支える基本骨格を形成すると言っても過言ではないと思います。
「大人になってから色々言ってもほとんど無駄」
というのはよく経験することですよね。(って言い過ぎか)
K君と走った100km、NHK長野放送局への冒険サイクリング
1976年。
中学3年の夏休み。部活も夏休み前にあっさりと終焉し、学校のプールでの日々の水泳以外は、ダラダラの夏休みを過ごしていた時に、小学校時代の件の悪友K君に誘われ、往復100kmほどのサイクリングに出かけました。私はもちろん片倉シルク号。K君はかなりシンプルなジュニアスポーツ車だったかなぁ。目的は、
「NHK長野放送局に行く」
です。なぜそういうことになったのか、よく憶えていないのですが、遊び呆けた(って言ってもラジカセを持って自転車で真っ暗な夜道を徘徊していただけですが) 中学時代の総括、みたいな気分が私とK君の心の内を覆っていたように思います。
(※ラジカセ…ラジオとカセットレコーダー/プレーヤーが一体となった可搬型音響機器)
ついでに、
「長野市内のオーディオ店でYAMAHAのモニタースピーカーを試聴する」
というオプション付きでした。貧乏で買えるはずもないのにオーディオにも只ならぬ興味を持っていた私に、中流家庭で高級オーディオセットを所有する家庭に暮らすK君が気を利かせてくれたのでした。K君には感謝の念を禁じ得ません。
往復100kmという距離ですが、当時の距離感覚としてはちょっと無謀、という範疇だったと思います。気分はほとんど、一か八か。パンク修理道具は、ペンチとビニールテープ。ペンチの柄のほうでタイヤを外し、チューブに開いた穴にはビニールテープを貼るという算段。これで応急修理が出来ることは経験済でした。
食料ですが、夏休み中に母親が作ってくれている弁当を荷台にくくりつけたのは憶えています。しかし、水を持っていたのかどうか、記憶にありません。多少はお金も持っていた、のでしょうかねぇ?
こんないい加減な装備(という以前に、装備と言う概念がなかった)で、灼熱の夏空の下、何とか長野市のとある公園内にあるNHK長野放送局に辿りつきました。受付の男性 (中学生の私には初老の男性に見えました) が対応してくれました。
「ほほぅ~、自転車で来たんだ。で、ご用は?」
「6時のFM番組でDJをやっているアナウンサーに会いたいんです」
「FM放送」の位置づけ
1970年前後に放送が開始されたFM放送は1976年当時、民放はFM東京、FM大阪、FM愛知、FM福岡の4局しかなく、田舎者にとっては、全国ネットを持つNHK FMが、FM放送のほぼ全てでした。
NHKは各県に配置した各局による独自のローカル番組を平日の午後6時台の1時間と、土曜日の午後3時過ぎ付近からの3時間弱の時間帯に設定していました。
大抵、リクエスト番組が組まれており、週末は公開放送が行われるなどしたため、DJ役のアナウンサーと聴取者との距離が随分近く感じられていた時代です。
私の住む長野県の東部では、電波の回折、干渉作用で電界が強くなる特定の場所で、幸運にもFM東京 (現在はエフエム東京) や関東各県のNHK FMを受信することが出来ました。
小遣いを貯めて買った安いラジカセをかついで自転車で徘徊していた私は、部活が終わった土曜日の午後、強電界地点の発掘に精を出し、発見した強電界地点に出向いてはFM東京や関東各県NHKのローカル番組を聴き、都会の息吹を感じる、という何ともシンプルというか、贅沢な時間の使い方をしていたのでした。
今思い返すと、あれは、
「贅沢の極み」
でした。
あ、そういえば、たった3kWで送出されていたFM福岡の電波を1000kmほども離れた長野県で受信した、という珍事に遭遇したのも中学3年の夏。
スポラディックE層(Sporadic E layer)と呼ばれる突発的な電離層の発生により、80.7MHzで放送されていたFM福岡の電波を受信しちゃったんですよね。
実は、同じ周波数でNHK千葉が電波を送出していたのですが、これを駆逐してFM福岡を受信してしまったというわけで。もちろん当時、スポラディックE層なんて知るはずもなく、ただ、FM東京でもNHKでもない放送に「?」となり、暫く聴くうちに「お聴きの放送はエフエム福岡です」のアナウンスに「??!」となったのでした。
最近では、スポラディックE層が発生すると、中国のFM放送局の電波をかなりの数、受信できてしまいます。
これは当時、FM福岡の放送を録音したカセットテープをFM福岡に送付することで「放送の受信を報告」したことに対する「受信証明書」で、通称ベリカード(Verification Card)と呼ばれるものです。
あの夏、「遠方からの受信報告が相次いで驚いた」ということが記された手紙をFM福岡の担当者さんからいただいたのですが、FM福岡では、この相次ぐ珍事を受けて急遽、ベリカードを準備したようで、このカードも、後日わざわざ送ってくれたものです。なお、ベリカードという言葉にピンとくるのは50代以上の方々かもしれません。
小学校時代からAMラジオで聴いていた洋楽はもちろんですが、FM放送ばかり聴いていて、山下洋輔とかキース・ジャレット、ビル・エヴァンスといったジャズ演奏家たちの存在を知ってしまい、気になって仕方がなかったのもこの頃。
それにしても、安いラジカセを持って自転車で徘徊し、FM東京を聴くという至ってシンプルな娯楽。こんなことに熱中するなんて、家族旅行もなにもない貧乏な中学生ならでは、ですね。あ、小学校5年の頃、洋楽に目覚めたのは、あのスーパーDJ、みのもんた氏の文化放送「オールジャパンPOPS 20」を通して、です。
そうですねぇ。勉強とか、してませんでした。嫌いでした。塾もありませんでした。あっても月謝が払えないので行きませんでしたけど。
ところで、FM放送と言えばFM雑誌。
当時、FM雑誌が音楽雑誌としても大きな役割を果たしていました。これは処分を免れて我が家に存在する唯一のFM雑誌。隔週発行だった「FM fan」の季刊別冊夏季号。
別冊ではなく通常発行のFM fanは隔週刊で当時200円ほどだったかな?当時の3大FM誌の中で、クラシック系に軸足を置いたFM誌でした。一方、中学のクラス担任は音楽教師で、地元のオーケストラでバイオリンを弾く演奏家にしてオーディオマニア。しかもFM fanの購読者、ということで、この先生には影響を受けました。
音楽室の試聴装置というのは普通、古色蒼然としているものだと思うのですが、この教師の肝いりで更新されていました(笑)。装置をじーっと眺めていると、
「なんだ、興味あるのか」
と、ニヤッと笑うのでした。
先ほどの画像の別冊FM fan夏季号。
ここにはとても危険な特集があったんですよね。故・長岡鉄男氏のバックロードホーンスピーカシステムの自作記事。貧乏故、この頃すでに、いろいろな意味で自作癖があったのですが、これには大いに刺激を受け、極限まで妄想が膨らんでしまいました。小遣いをはたいて全く厄介な書籍を買ってしまったものです。ま、しかし先立つものがないので、妄想に耽るだけでしたが。
…ある日、中学校から帰ると何故かオレの家にステレオが届いていて、狂喜したオレは材木店に飛んでいき、21ミリ厚1級ラワン合板を買い、すっかり設計済みの線をけがいてノコギリを引き・・・ついに出来上がったスピーカーをアンプにつなぎ音を出すその瞬間…
いやマジでそんな妄想を繰り返していました。
なお、長岡鉄男氏の著作に関しては、こちらでも10年ほど前に触れています。
レビュー スキージャーナル 『ロードバイクの科学』
「妄想」の効能
結局、
「先立つものがないので、妄想に耽るだけ」
これ、です。
何とまあ、ステキな時間の使い方をしていたのでしょう。今想えばあれは、贅沢の極み、でした。おかげで鍛えられたのだと思います。長岡鉄男氏の著作を買い、設計に必要な数式を理解しようともがき、ガラクタを拾い集めて色々やって、それらのガラクタから学んだこともとても大きかった。結局、この時の
なんでも自分でやればいいんだ
という思いが、その後の自転車いじりや、身の回りの色々な自作につながっていたりします。
実は、小遣い節約のために中学時代から自分で髪の毛を切っていたのですが、最初は無謀以外の何物でもない行為であっても、そこは若さ故なのか、やがて、面白いように腕がどんどん上がってくる(笑)わけです。
しかも普段、鏡に映った反転像を見て散髪していた割には、なぜか人のアタマを直接見て散髪することも何の問題もなく出来てしまう、というおまけつき。後年、母親の髪を整えたこともあります。
針仕事をしたり台所に立ったり、ということにそもそもジェンダー区別など感じたことはなく、何でも自分でできるようにしておく、という考え方が自然と身に付いたのは、親のおかげなんだろうなあ、と思います。
おおーっと、複合脱線状態から復帰します!
「6時のFM番組でDJをやっているアナウンサーに会いたいんです」
とか何とか、申し上げたのですが、すると受付の人が何処かに電話連絡をしてくれて、
「アナウンス部長が来てくれるから」
ということになってしまいました。
「あのぉ、青木アナですか?」
「そうだよ。そこでちょっと待ってて」
アナウンス部長が誰なのか、中学生が知っている。その位、リスナーとアナウンサーの距離が近かったのですね。応接コーナーのようなところで待っていた記憶があります。
暫くするとアナウンス部長が現れました。最早ここまで来ると、一体これからどんな展開になるのか、K君も私も、全くわかりませんでしたが、
「遠いところをどうもありがとうございます。自転車で来たんだってぇ?よく来てくれましたねぇ。で、何か番組にご意見がおありとのことのようですが」
という流れになってしまい、公開番組の作り方がやれどうした、とか、私とK君で何か色々と意見を申し上げ、アナウンス部長さんもいろいろ話をしてくれたような気がします。が、よく覚えていません。ジャージと半そでTシャツ姿のみすぼらしい中学生を来客としてきちんと扱い、対応してくれたNHK長野放送局に、とにかく感謝するしかないですよねぇ。
「ヤバかったな~!」
「よくあんなことスラスラ言ったな!」
「やったなぁ!」
などと、外に出てからお互い讃えあいましたが、なにやら不思議な達成感が。何ですかね、あの時の気持ちは。
いつどこで弁当を食べたのか全く記憶にありませんが、夏の暑い日に荷台にくくりつけて、時間が経っても温まったままの弁当を、きっといい気分で食べたことでしょう。この昼食自体、今にして思えばチャレンジングですが。
NHKの次に、K君が知っている長野市内のオーディオ店に行き、YAMAHAのモニタースピーカー NS-1000Mの試聴を果たしました。
「弾力がある低域だよな」
とかとか、K君。私は
「す、すげぇ。こんなイイ音、永遠の夢だな・・・」
と思いつつ、別冊FM fan 1974年夏季号に載っていたあのスピーカー、
「いつか長岡鉄男のバックロードホーンを自作して鳴らす」
「その時が必ず来る。待ってろよ」
と強く思ったものです。全く単純な中3です。
ところで、長野市内のオーディオ店で視聴したYAMAHAのNS-1000Mというのは、当時、大ベストセラーとなり、その後、驚異のロングランを記録し続けたモニタースピーカーの定番商品です。
1970年代というのはある意味、オーディオの時代で、Hi-Fi再生というテーマのもと、電気電子系の技術者が本気で音響技術に取り組んだ時代でもあり、日本では民生品で高品質な製品が続々と生まれた時代でもあります。
小型モータ技術でも日本は傑出していました。レコード再生用のターンテーブルを直接、高安定に駆動するダイレクト・ドライブを実現するために、精緻な速度制御が可能なDCブラシレスモータを70年代中盤に、いち早く商用化に導いたのは、実は日本の技術者たちだったりします。
発売から30数年後の2010年に生産終了となったDJ御用達、TechnicsのターンテーブルSL-1200もその系統の製品。現在のハイブリッド自動車などで使われるIPMモータへとつながる技術の萌芽がこのとき芽生えているわけです。
当時、Hi-Fiオーディオという分野でしのぎを削った各社の技術者たちは今、何を思うでしょうか。
SONYとPHILIPSによりCD規格が構築され、CDプレーヤが発売されたのが1982年秋。その後、ディジタルオーディオが徐々に一般化し、電子デバイスの進化は止まる気配がなく、それと歩調を合わせて大容量化への道をひた走る通信の世界も、モバイル通信システムでは5Gに到達しようとしていますが、CDが出現して数年を経たあたりから、Hi-Fiオーディオというカテゴリが徐々に、マイナーなものへと変貌を遂げていったように思います。
中学1年の時、別冊FM fan 1974年夏季号で初めて見た故・長岡鉄男氏の自作バックロードホーン・スピーカー。これをひな型にして自分で計算してオリジナルを製作したのは7年後の1981年。大学1年の冬休みまで待つことになります。スピーカユニットは2008年に交換、筐体も再塗装を施し、豪快にして精緻な長岡サウンドは製作後37年を経て今なお、自宅オーディオで活躍中です。(大脱線してるぞ!)
冒険サイクリング、その後
長野NHKへの小さな冒険から帰宅した夜、町工場から帰ってきた母親には、自転車で100kmを走ったことを話しませんでした。働く親と、自転車で遊び回る自分。少し申し訳ない気持ちになったものです。その夜、国道を走る自動車の音が耳から離れず、
「自転車に長時間乗ると、こうなるのか」
などと考えながら布団に入ったのを憶えています。
往復100kmの小さな冒険の前日までは、勉強など一切やらず、中学校での成績も下から数えたほうが圧倒的に早かったのですが、どういうわけかこれを機会に、少しはマジメに勉強しよう、と思うに至り、いつも快く付き合ってくれる成績の良いK君と早速、約束したのでした。そして夏休みの深夜徘徊をやめて、翌日から深夜勉強にシフトしてみました。
とは言っても夏休みです。昼間は相変わらずで、学校のプールに行って校内水泳大会個人種目3連覇(笑)に向けて、
「水泳部員に負けるわけにはいかねえ!」
などと闘志を燃やし、大真面目に練習したのでした。元気でしたねぇ。
雑誌「サイクルスポーツ」との出会い
この頃、書店でサイスポを立ち読みし始めて一年近くが経過していたでしょうか。
そして、前から気になっていたこと。
それは、時々、前後荷台の左右に荷物をぶら下げた自転車が国道を走っていくという事実、です。見慣れない形の自転車が一体、どこから来るのか。ちょっとした疑問でしたが、サイスポを書店で立ち読みし始めて理解しました。
「あれって、関東方面から群馬と長野の県境の峠を越えて来ているんだ!」
当時、時々見かけた自転車旅行と思しき方々。今では日本はおろか、発祥の地、フランスでも絶滅危惧種(もしかしてフランスでは絶滅種か?)となっているランドナーの類の自転車だったんですね。ロードレーサー、今風に言えばロードバイクも稀に見かけましたが、数は非常に少なかったと思います。
このサイスポは1977年4月号。中学卒業の頃に買ったものです。当時のサイスポは数冊が手元に残っています。それにしても、あれれ、カンパ・レコードのロードが表紙なんですねぇ。旅行車じゃないんだ。実物を見たこともないシュパーブとかデュラエースに関する記事を読んで妄想をかきたてていたのは言うまでもありません。
サイスポには時々、長距離走行の記事もありましたが、
「でも自分だって重い自転車で往復100kmを走ったんだ」
などと思っていたのでした。
町から返還不要の奨学金を受給しながら高校に進み、隣の市の高校まで往復16kmを自転車で通学しましたが、1年間は片倉シルク号で通学しました。この頃、立ち読みのサイスポから得た知識で、どうも自分が住む町が接する群馬県との県境には自転車乗りが好んで往来する峠がある、ということに気付き始めます。
我が家には自家用車などないですし、家族で旅行するなどということも皆無でしたから、そういった峠とか、道路が、なかなか頭の中でつながらなかったのです。というわけで1977年、高校1年の5月連休。鳥居峠に行ってみたくなりました。実はこの峠、32年後の2009年にふたたび上っています。
軽く20kgをオーバーしたであろうシルク号。この峠への道は軽快車のギヤで上るような道ではなかったのですが、途中で諦めるわけにもいかず、ただひたすら体力だけで上り切りました。
「重てぇ~」
とか呟きながら上ったような気がします。
ほぼ立ち読みとはいえ、サイスポを読んでいるのに乗っている自転車はママちゃりのような自転車。今振り返れば、何とまあ、イタイケな若造。今そんな高校生がいたら、
「ママちゃりだからって腐ってねえよな。走ろうぜ!」
と言って差し上げたいですね。
片倉シルク号、墜つ。そして故郷での暮らしへの想い
1972年の夏に中古で買ってもらった片倉シルク号。
1978年の春に寿命が来ました。全体的にガタがきて、部品修理代が嵩むようになってきたのです。
今思えばやはり、軒下で半雨ざらしというのは良くなかった。時々雑巾で拭いてキレイにしていたのですが。どうしたものかと思案していると、近所のバイク屋のオヤジさんが、5段変速のシンプルな通学自転車を超格安で販売してくれるという夢のような提案をしてくれました。
メーカーはスズキサイクル。この日を境に、片倉シルク号はその役割を終えました。ところで当時、二輪のスズキは自転車もやっていたんですね。
永遠のリファレンス・細山製作所FTBロードとの出会い
その後、大学を目指した私は国公立に進むしか道はなく、一度失敗し、春休みのバイトで資金調達し、これを元手に自宅浪人します。つまり、
なんでも自分でやればいいんだ
自宅に引きこもり虎視眈々と翌春の機会を窺い、月に一度ほど、長野市の予備校に模擬試験を受けに行くという日常を1年間、続けました。
当時、良心価格設定の東京理科大などを除けば、いわゆる私立大理工系の初年度納付金が100万円ほどで、そんな金など払えない自分が合格したところで詮無し。
これに対して国立大の理工系学部は年間授業料がわずか18万円。おかげで、週4バイトの月収10万ほどと、夏休みのバイト、これと奨学金で何とかなったというわけです。しかも、私の進学先は授業料免除制度という、ありがたい制度まである大学でした。
あの当時は家庭教師というのが非常に割のよいバイトで、それを週4で6年間続けられたのは大きかった。
そして、35年を過ぎた今も平然と活躍する永遠のリファレンス・細山製作所FTBロードとの出会いも1983年、大学3年の夏に果たし、6年間の学生生活は自転車も学業も、どうにか乗り切った怒涛の時代、でした。
「贅を尽くす」の意味
故郷での暮らしは貧乏そのものだったのですが、周囲の大人たちは皆、親切で、助けられました。私の眼には皆、本当に立派な人たちに映ったものです。自分は、あの地の人々に育てられたのだなあ、と思います。
そんな故郷での暮らしは貧しいながらも幸せで、ある意味、贅を尽くした暮らしでした。近所の素晴らしい人々や級友たちとともに、自分の初めての自転車、片倉シルク号のことを思い出しつつ、後半の人生、さあ、如何に生きようか、と思案する今日この頃です。
しかし、どれほど努力し、くふうを凝らしたところで、あの頃と同じような贅沢な暮しを再び手にすることは、できないのではないか、とも思います。
仮に豪邸を構え、クルマも自転車も最先端の超高級車に乗り、社会的地位を得て、あらゆるものを手中におさめたとしても、私にとってそれは、あのころの贅沢とは比べるべくもない、のかもしれません。
「ママちゃりであろうとなんであろうと、堂々と走って楽しもうではないか!」
これはいろいろな意味で私の大事な信条であり、常に忘れずにいたい、と思っています。
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