今日は一冊の本をご紹介したいと思います。鴨長明(かものちょうめい)という人が1212年3月に書いたとされる「方丈記」という本です。いまから811年前に書かれました。何か自転車について書かれているわけではありません。しかし長年自転車に乗られてきた方、特に旅系サイクリングを愛好している方にとっては、この本は琴線に触れるところがあるに違いない、と感じます。
方丈記、という名前自体はほとんどの方が聞いたことがあると思います。また「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。」という冒頭部も、多くの方が国語の授業で習ったことがあるのではないでしょうか。私も中学か高校で習ったのをぼんやりとおぼえています。しかし全体を通して読んだのは、つい2〜3年前のことです。そしてこの本は、静かな衝撃でした。
方丈記ってどんな本?
方丈記とはどんな本でしょうか。めっちゃ乱暴に紹介すると、上流階級の良い身分だった鴨長明さんが、世の中いろいろ面倒くさくなって出家して、三メートル四方(=方丈)のモジュラー式・移動可能な小屋に住んで、過去の人生で経験してきた大災害や世間の変化を思い出しながら、感想を綴っている本です。
こう書くと「えっ、気難しい世捨て人のじいさんが昔のことを思い出してブツブツ言ってる本なの」と思われそうですが、この人が経験してきた「大災害や世間の変化」は、結構半端ないのです。そして現代を生きている私達にとって、この本は「自分はこの不安定な現代社会でどう生きるべきなのか・何を大切にして生きていけば良いのか」を考える際の大きい手がかりになります。
「方丈記」で描写されている大きい出来事をいくつか並べてみましょう。
- 大火災(安元の大火 1177年)
- 竜巻被害(治承の竜巻 1180年)
- 首都の移転(福原遷都 1180年)
- 飢饉と疫病(養和の飢饉 1181-82年)
- 大地震(文治京都地震 1185年)
などです。まぁよくもこれだけの大災害・事件を短期間に経験できたな… と、中学生の頃の私だったら思ったかもしれません。
しかし、私(と恐らく読者の皆様)が生きているあいだに、何が起こったか。思い返すと鴨長明さんの時代に引けを取らないくらいひどかったに違いないと思える出来事が結構ありました。これはこれで半端ない時代だったと思います(そして、その余波はまだ続いている)。
- 大地震(阪神・淡路大震災 1995年)
- 戦争(アメリカ同時多発テロ事件 2001年)
- 金融危機(リーマン・ショック 2008年)
- 大地震(東日本大震災 2011年)
- 大地震(熊本地震 2016年)
- 疫病(新型コロナウイルス感染症 2019年)
- 戦争(ロシアのウクライナ侵攻 2022年)
- 戦争(パレスチナ・イスラエル戦争2023年)
- 大地震(令和6年能登半島地震 2024年)
これからは南海トラフ巨大地震が、2038年までにかなりの確率で発生すると言われています。あと15年以内なので、そう遠い未来のことではありません。首都直下地震も、もういつ起きてもおかしくないそうです。ポストコロナの不況もこれからがむしろ本番と思われ、リーマン・ショックに迫るような金融危機、経済恐慌、加えて戦争のリスクも高くなってきています。
頑張って家を建てても、地震で壊れたり津波に流されてしまうかもしれない。テスラやアップルの株も無価値になってしまうかもしれない。いくら働いても給料が増えない。新型コロナのような大きい疫病がまた流行するかもしれないし、生きるか死ぬかの戦争がはじまってしまうかもしれない。
こんな状況では、誰でも将来が不安になるでしょう。未来が明るくなる材料よりも、不安材料のほうが大きい。では、どういう心構えでこの時代を生きていけばよいのか。そのヒントがこの「方丈記」にはあると思います。
ただし「こうすればああなる」というノウハウ、ハウツーはありません。しかし「世界をどのように眺めれば、少しでも心安らかに生きていけるのか」についてのヒントが得られる本です。
サイクリストとの親和性
はじめて「方丈記」を通読した当時、私はすぐに東京の荒川のことを思い出しました。荒川サイクリングロード、と呼ばれている道です(サイクリングのための道ではないけれど、そう呼ばれている)。
クロスバイクとMTBを経てロードバイクにはまった私は、10年近く荒川サイクリングロードを走っていた時期がありました。すると定期的に増水が起こって、大型台風の後などは道が水没して走れなくなったりしました。堤防も作業道も、しょっちゅう修理されています。
風景もだいぶ変わりました。たとえば東京スカイツリーは、私が荒川を走りはじめた頃はまだありませんでした。走りにいくたびにちょっとづつ高くなって、今では目に入らない日がありません。
同じ道を何年も繰り返し走っていると、あの建物が消えた、新しい建物がここにできた、また台風で道が消えた… といったふうに、小規模ながらも世の中の変化・時の移り変わりに敏感になるのではないでしょうか。
東京から離れた土地の林道を走っていても、令和3年台風第9号(2021)の影響で崩落し(それ以前の台風被害から放置されている道も多い)、通行止めになっているのを見ると「世の中の脆弱さは800年前も今もほとんど変わらないな。自然には勝てないし、壊れては作りなおしの繰り返しだ」としみじみ思います。
同じ道をよく走っているサイクリスト、日本各地を自転車で旅する人々は、鴨長明が描いていた「世のはかなさ」を肌感覚で理解することが多いのではないでしょうか。長時間自転車に乗って瞑想的に外界を観察しているような人は、方丈の仮の庵で思索する鴨長明の心情を理解しやすいのではないかという気がしています。
中高生だったら興味を持てなかった本
中学生か高校生の頃、私はこの本に全く興味が湧きませんでした。中高生にとって、800年前の世捨て人が「世の中のものはみんな消えていく。はかない。無意味。自分と他人を比べると不幸になる。」などと呟いている本が、面白いわけがない。過去よりも未来、諦めることよりも成長することに興味があった。日本史よりも世界史、古文よりも英語がおもしろかった。
方丈記をはじめて通読した時、「こんなもの中高生に教えたって、おもしろがって読むわけがない」と思いました。「でも、大人になった今では意味がわかる。」と…
しかし、いまの中高生はどうなんだろう、と思います。いま14歳の人は、東日本大震災の記憶があるかもしれない。コロナ時代も経験した。経済は生まれた時から衰退している。資本主義社会はもう限界にきているけれど、一方で効率と成長を貪欲に追求する時代はまだまだ続いている。現代の中学生なら、もしかしたらすんなり「方丈記」を理解できたりするのでしょうか。
本に限らず、出会いには適切なタイミングがあります。自分にとって必要な時に、何かに出会ってしまう。私にとって「方丈記」はそういう一冊でした。この記事をここまでお読みいただけた方でも、もしかすると「あんまり興味持てないな」と思われる方のほうが多いかもしれません。しかしサイクリストの方は、いつか手に取って納得できる本だと思います。
この本を読むことで私はどんなふうに成長できますか? よりお金持ちになれますか? もっと幸せになれますか? といった質問があるとしたら、そういう質問そのものが無効化されるような本です。しかし、ある種の生きやすさは得られるような気はします。世捨て人になることが大切なのではなく、他人と自分を比較せず、他人に依存せず、物質や財産への執着から自由になると、少し楽に生きられる。そういうことがわかる本だと思います。
バージョンはいくつかありますが、私のおすすめは中野孝次氏の現代語訳と解説付きの「すらすら読める方丈記」。「聞く読書」Audibleには女性による約40分の朗読版もあり、こちらもおすすめです。輪行で暇な時などに、いつかぜひ聞いてみてください。