Bicycling.comという北米のメディアがインスタグラムに投稿したある名言が波紋を呼んでいます。というか、やや炎上しています。
ジャン・ド・グリバルディの言葉
紹介されているのは1947〜48年にかけてツール・ド・フランスに出場したフランス人サイクリスト、ジャン・ド・グリバルディ(Jean de Gribaldy, 1922-1987)の言葉です。
Cycling isn’t a game, it’s a sport.
Tough, hard and unpitying, and it requires great sacrifices.
One plays football, or tennis, or hockey.
One doesn’t play at cycling.
とありますが、”game”と”play”という言葉のニュアンスを考えながら読む必要があります。”game”には「勝敗のかかった試合」のほかに「ゲーム・遊び」という意味があります。”play”には「試合をする」のほかに「遊ぶ」という意味があります。言葉の意味は文脈によって変わるので、発言者がどのような意図でそれを言ったのかを読み取る必要があります。
完璧な日本語にするのは無理ですが、あえて訳してみると…
サイクリングはゲームではない、スポーツだ。
辛くて、困難で容赦がなく、多大な犠牲を必要とするものだ。
人はサッカーやテニスやホッケーをプレイする。
(しかし)人はサイクリングでプレイしたりしない。
「ゲーム」や「プレイ」という言葉の幅広い意味をどう取るかは読者次第ですが、Bicyclingがこの投稿で言いたかったのは恐らく、プロサイクリングは過酷であり、そして自己犠牲が要求されるものの、それは美しいスポーツなのだ、ということだったのだと思います。
アンダーラインまで引かれているので、きっとみんなが共感してくれるいい名言を紹介します、という意図だったのでしょう。
しかしコメント欄には異論反論が殺到する事態に。少し眺めてみます。
- それはどんなスポーツにも言えるでしょう
- バカげている(fucking stupid)
- この投稿は俺の全人生を台無しにした
- いや、反対に、この投稿はなぜ私達の「スポーツ」の外側にいる人がサイクリングを魅力的に思わないのか、その理由を端的に示しているよ
- これはかなりひどい投稿だ。自転車に乗ることで他のスポーツよりいくらかアスリート的になれる、みたいに振る舞う必要はない。テニスやサッカーや他のすべてと同様に、楽しみのためにやったって真面目な競技のためにやったっていい
- 何が言いたいのかはわかる、でもこの言葉は古めかしいし過大評価されているよ、それに正直に言うと、退屈だ。自転車やサイクリングはあらゆる人々にとってあらゆる種類のものだ
- これは亡くなったフランスのサイクリストの言葉だ。個人的に感情を害されることなく異なった見解を読むことができないのなら、きっとシャモワクリームが足りてないぞ
- でも僕は自転車をプレイするのが好きだ!
- 私は楽しみのために自転車に乗っています。私は確かにプレイしています
- 私の好きなスローガンは(地元ショップのものですが)「レッツ・プレイ・バイク!」です
- これはバカげている。苦しみとは伝染病とか、飢饉とか、そういうものだ。自転車に乗ることは自由と喜びであって、排他的なものであってはならないと思う、そうは思わないかい? いつから我々はサイクリストであることについての誤った神話を広めるようになったんだ?
- サイクリングはスポーツでもないよ、それは生き方の一つだ。サイクリングが上手になるためにはスポーツが得意である必要はない
- サイクリングはスポーツであり、ゲームでもあると思う。やりようによって遊びに満ちた(playful)ものになるだろう
- これは私達の(自転車・レース)産業において間違っていることのすべてを体現しているよ。反対意見を見ると人々は間違っていないことに希望を見いだせる
- サイクリングはハードだ。真面目な自意識はサイクリングのイメージを悪くしている
- 僕はサイクリングが好きだけど、どんなスポーツも同じようにチャレンジングで、どれも同じような犠牲を要求するものだ。どんなスポーツでも上達するとそうだ。いろんなスポーツを試してみたけれど、いちばんタフだったのは、たぶんレスリングかな。サイクリングもタフな時があるけれど、レスリングや柔術と同じようなタフさではない。ボクシングについてもそうだと聞く。いちばんおもしろいのは、たぶんマウンテンバイク、バスケットボール、テニス、ダートバイクかな。
と、こんなふうにどちらかというと否定的なコメントが多く寄せられています。これは投稿者のBicyclingにとっては予想外の結果になったものと思われます。そしてこんなコメントを残しています。
ここで議論が発生しているのを気に入っています! そしてもちろん私達は自転車をプレイするのが大好きです、しかし私達はグリバルディのような、遊びで(playing around)やっていなかったクラシック・ライダーたちを尊敬しています。
サイクルロードレースが過酷なものであり、他のレースにはあまり見られない特殊な自己犠牲を要求するチームスポーツであるのは間違いないでしょう。しかしその点を過度に美化することがロードレースや自転車産業の排他性に繋がっているのではないか、と受け取っている人が多いように思えました。
去年だったと思いますが、ペーター・サガンが「ロードレースは退屈だから自分なら最後の30分しか見ない」といった主旨の発言をして物議を醸したのが記憶に新しいところですが、ものすごく強いライダーであるサガンがレース中にウィリーをしたり、いろんなおふざけをしたりするのを見ていると、彼はまさに新世代のプロサイクリストなのだろうという気がしてきます。
サイクリングはスポーツであり、ゲームでもあると思う。やりようによって遊びに満ちた(playful)ものになるだろう
というコメントを読んで、私はすぐにサガンを思い浮かべました。大変なスポーツでも楽しそうにやっている人は、やっぱりいいなと思います(彼は特別すぎる人かもしれないけど…)。
ジャン・ド・グリバルディ氏のこの発言は、恐らく何十年も前のものでしょう。当時のプロロードレーサーの、あるいは社会の価値観がどんなものだったかは知る由もありませんし、特別に排他的なメッセージになっているとも思えませんが、Bicyclingによるこの言葉の紹介の仕方に多くの人が「スポーツサイクリングの誤った美化」を感じ取ったのは間違いないようです。