私の家に、あるサイクルパーツが転がっている。いつ買ったのか。なぜ買ったのか。覚えていない。使ってさえいない。
このベルである。
NUVO ティーポットベル (お茶ベル)
ご覧の通り、ベルの共鳴体をお茶の「急須」に見立てたデザインとなっている。ややハイピッチの、アタックの強い音色であり、減衰は早い。洗練された優しい音ではない。むしろ癇に障る音と言っていい。急須のフタは、開かない。一見するとエアロな形状と言えなくもないが、ハンドル上にあるだけで空気抵抗は増えるはずだ。
わからないのは、なぜ急須なのか。なぜ茶なのか。ということである。デザイナーはこのベルにどんな意味を込めたのか。そしてなぜこのデザインが商品企画会議を通ってしまったのか。
急須の取っ手にあたる部分の黒いプラスティックはただの飾りであり、何の機能もない。実測重量は41gもある。キャットアイの真鍮製ベルの約2倍の重さである。
全体的に、意味がわからない。これほど意味のわからないサイクルパーツは世界中を探しても見つからないだろう。
そんなに急がなくたって、いいじゃないか。まあ茶でも飲みなよ。
ということなのだろうか。サイクリングロードで速い奴にぶち抜かれた俺に、そう語りかけたいのか。
だがこのベルは、31.8mmのオーバーサイズハンドルには対応していない。我が家にこのベルを装着できる自転車は、1台もない。
そもそも私は、このベルを使うことさえできないのだ。
なぜそんなものを買ったのかわからないが、もう何年も家にある。
買った店は覚えている。上野御徒町のワイズロード・アサゾーだ。東京における、ロードバイクの老舗である。なぜそんなガチのスポーツサイクル専門店に、機能性や効率性から最も遠いこのパーツが置かれていたのかも謎である。
意味なんか、ないんだよ。
もしかすると、このベルが「キーンッ」というはかない打撃音とともに伝えようとしているメッセージは、そういうことなのだろうか。
確かに、自転車に乗ることに意味はない。脚を回し続けることに、旅をすることに、本質的な意味はない。
それは人生も同じである。
ライドや人生に意味を持たせること自体は、可能である。
おいしいものを食べに行く。見たことのない光景を見に行く。レースで勝つ。
社会に貢献する。仕事で成功する。家族と幸せに暮す。そうした目的を持つことはできる。
しかし、人生それ自体に意味はない。私達はなぜこの世に生まれ、そして死んでいくのか。そこにどんな意味があるのか。それは未だ明らかになっていないし、これからも明らかになることはないだろう。
自転車に乗ることも同様である。我々はいろいろな理由を付けてライドに出かけるが、なぜ何時間もペダルを回し続けるのか。楽しさ、気持ち良さはあるが、辛さもある。向かい風なんか最悪だ。
何のために俺は乗っているのか。
意味なんか、ないんだよ。
意味がわからないと、人は不安になる。人生にはひょっとしたら意味がないのではないか、という想いと恐怖から、人は人生の根拠を探し求めた。そして様々な宗教が生まれた。
神の誕生である。
不思議の国ニッポンが生んだ、世界でいちばん意味がわからないサイクルパーツ。だがこれはことによると、サイクリングの、そして人生の真実を語りかけてくる、かなり真面目なパーツなのかもしれない。もしかすると、神の一種なのかもしれない。
だが全く役に立たない。正直、買って後悔している。そのうち捨てるつもりだが、もったいないので一度だけ役に立ってもらおう。この記事のネタとして。
機能だけならキャットアイのほうがいい。
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