自転車を「チャリ」と呼ぶのはアリかナシか 2610人にお聞きしました

最近Twitterで「チャリ」という言葉を巡って論争が起こっているようでした。どうも発端は、

  • 「チャリ」という言葉にポジティブなイメージを持っているある方のツイートに対し
  • 「チャリ」という言葉にネガティブなイメージを持っている方が「そんな言葉は使うな」と注意した

ということのようです。

このテーマについては以前から個人的にも思うところがあったので、まずはTwitterでアンケートを取ってみることにしました。ご参加いただいた方、様々なご意見をお寄せいただいた皆様に感謝申し上げます。

「チャリ」という言葉は好きですか、嫌いですか?

アンケート結果はこちらです。

「チャリ」という自転車の呼称は好きですか?

  1. どちらかというと好き
  2. 好きでも嫌いでもない
  3. どちらかというと嫌い

最多回答は「好きでも嫌いでもない」。次点が「どちらかというと好き」。「どちらかというと嫌い」がそれに続く、という結果になりました。

主だった意見

このアンケートに対してTwitterで寄せられた様々な意見をご紹介します。特定の発信者に対して攻撃が発生することは望ましくないので、ご意見はある程度抽象化し、発信者のお名前は省略させていただきます。ご了承ください。

「どちらかというと好き」派

まず「どちらかというと好き」派、「チャリ」という言葉をポジティブに受け止めている方々のご意見から。

  • 愛称みたいで好きです
  • チャリ、という語感がかわいいから好きだ
  • チャリ、という言葉が悪いイメージで使われていた事例を知らない
  • 相棒感があって好きな呼び方だ
  • NHKで「チャリダー」という番組が始まって以来、ロードバイクのことをチャリと呼んでも良いんだ、という安心感を覚えた
  • 嫌うのは個々人の自由だが「チャリは蔑称由来である」というのが定説であるかのように言われるのは不快だ
  • 大好き、という選択肢も入れて欲しかった

「どちらでもない・状況によって合わせる」派

次に「どちらでもない派」の方々のご意見から。状況によって使い分けるといったケースや論考的な内容、微妙なご意見もまとめてご紹介します。

  • こういう件で必要以上に目くじらを立てる人が好きではない
  • 自転車の呼び方でネチネチ言ってくる人とは関わり合いたくない
  • チャリ、と言われて嫌なのはお金をかけてきたからではないか
  • チャリ、は嫌だが「ママチャリ」には抵抗がない、という人もいておかしいと思う
  • その言葉を発する人が言外に嫌悪・蔑視などの悪意を滲ませている場合はどんな呼称でもその人に対して腹が立つ
  • 相手によって使い分けている。好きでも嫌いでもなく、呼称の1つにすぎないと思っている
  • どうでも良い話だが、嫌がる人もいるため他人の自転車には使わないようにしている
  • 自分または親しい人間の自転車についてはチャリと呼ぶが、他人の自転車は自転車と呼ぶ
  • 同じ趣味の人にはチャリとは言わないが、自転車が趣味ではない人には趣味を説明する時「チャリ」は使う
  • クルマ→バイクという話の流れの中で「ジテンシャ」では不自然なのでチャリと言ってしまう
  • 「チャリ」はあまり好きではないが「チャリンコ」なら好きかもしれない
  • 子供の頃「チャリ」は自虐的に(蔑称的に)使っていたような記憶があるので自分では使わない。人が使っているぶんには全く構わない
  • 「チャリ」という言葉を否定する「意識の高さ」が初心者の排除や、非スポーツ自転車・歩行者への攻撃的な態度となって現れることもあるようにと思う

「どちらかというと嫌い」派

  • 大嫌いな言葉である
  • 嫁にも等しい大事な相棒をチャリと軽く呼びたくない
  • リスペクトが感じられないので嫌いである
  • 侮蔑語由来でもあるから嫌いだ
  • 他人が使っていても構わないが、自分は嫌いなので自転車と呼ぶ
  • 個人的にダサいと思っているから使わない

私にとって「チャリ」がかつて意味したもの

ママチャリ または シティサイクル

じゃあお前の意見はどうなんだ、と言われそうなので少し書いてみます。

最近かなりどうでも良くなってきたのですが、私は「チャリ」という言葉はどちらかというと嫌い派です。

そしてなぜそのようになったかについてはかなり個人的な、明白な理由があります。

中学・高校生の頃、私も「チャリ」という言葉を使っていました。通学や友達の家に遊びに行く時の「足」としての「ママチャリ」を「チャリ」と呼んでいましたし、まわりの友達もみんな「チャリ」と呼んでいました。

「チャリ」は悪い言葉では全くありませんでした。それは「傘」や「やかん」といった他の日常的な道具類と同じ水準に位置する言葉だったように思います(特別なニュアンスはなかった)。

そして、その頃の私達にとって「チャリ」とは、雨ざらしにしても気にせず、メンテナンスもせず、サビだらけで、ろくに油も差してやらず、壊れたら捨てて買い換えればいいだけの、大事にされない安物のママチャリやシティサイクルを意味していました。

「チャリ、はやめろ」と思った瞬間

しかし大人になってクロスバイクやMTB、そしてロードバイクといったスポーツバイクの面白さに目覚めた私は、ある時、数年ぶりに再会した高校時代の友達と話をしている時、こう言われました。

何、お前、チャリにはまってんの?

それを聞いた時、私はイラッと来たのをよく覚えています。

その理由は、私が夢中になったスポーツバイクは、大事にメンテナンスしたり、自分で組み上げたもので、かつてその友達も私も破壊的に乗り回していた「あのチャリ」と同じものではない、と思ったからでしょう。

違うんだよ、と私は内心思いました。

違うんだよ。チャリはチャリなんだけど、そういう「チャリ」じゃないんだよ。チャリ、とか言うなよ。

でもその気持をうまく説明することはできませんでした。

しかしあらためて考えてみると、私はその友達に「チャリとか言うな」という資格はなかったでしょう。

「チャリ」という言葉が私の中でどう変化したか、私の価値観がどのように変化したかは、彼にとってはどうでもいいことであり、私が得た新しい価値観を彼に押し付けることはできないはずです。

また、当時の私の気持ちには「チャリ」に対する「無意識の優越感」も潜んでいたような気も、しないではありません。イタリック体にした部分です。

へえ、チャリダーなんだ?

「チャリ」という言葉に抵抗感を持つようになった最初のきっかけはその友達との上の会話だったと思います。そしてその後も「チャリ」という言葉に遭遇するたびに、自分が「望まないあだ名」で名前を呼ばれるような、嫌な気持ちになることが多くなりました。

たとえば自転車通勤をはじめた私に向かって、会社の上司が「へー、チャリダーなんだ?」と話しかけてきた時は、ムカッとしましたね。

ただ、もしかすると彼はその「チャリダー」という言葉を親しみをこめて口にしたのかもしれません。

その後NHKで「チャリダー」という番組がはじまった時も、この言葉は俺には無理だ、と思いました。それで、面白い番組だとは聞いていたのですが、今日に至るまできちんと見たのは1回あるかないかです。

時代とともに変わる言葉のニュアンス

しかしある言葉のニュアンスは時代によって変わっていきます。そして受け入れる側の自分自身も変わっていきます。気がつくとかつては受け入れられなかったものを受け入れていることもあります。

私は「ママチャリ」という言葉も嫌いで、以前は「軽快車」や「シティサイクル」と呼んでいたのですが、今では特に抵抗なく「ママチャリ」という言葉を言ったり書いたりします。

ママチャリ

他の例で言うと、私はゲームを意味する「ゲー」という言葉が出はじめたころ、かなり嫌いでした。落ちゲー、サバゲー、クソゲー、といった言葉を見聞きするたび、そこまで言ったら最後の「ム」ぐらい言え、と妙に憤慨していた時期があります。

これは、今ではまったく何も思わなくなりました。サバゲー、クソゲー、という言葉を聞いても、もう何も思わない。何の違和感もない(このあたりは言葉の経済性とも関係があると思います。発音や書字にかかるコストが少ない言葉のほうが生き延びます)。

私もたぶん「ゲー」という言葉に関して、新しい状況に適応してしまったのでしょう(人によってはこれを「堕落」と捉えるのかもしれません)。

「チャリ」という言葉は、私の中ではネガティブなものになってしまいましたが、他の人の人生では「チャリ」がずっとポジティブなものであり続けていることも理解できるようになりました。

私は現在も、これからも「チャリ」という言葉を自分から積極的に使うことはないような気はします。

しかし、他人が「チャリ」と言う言葉を使うのは本当にその人の自由なので、そんな言葉を使わないでほしい、と言うことはないと思います。

私は「こういう表現はやめろ」と他人に強制されることが嫌いです。だから自分も他人に特定の表現を強制するつもりは、ないですね。

「チャリ」という言葉を使っている方々のことを軽蔑するつもりもありませんし、軽薄だとも思いません。幼少期から「楽しくて大事にする素敵な乗り物」として「チャリ」という言葉を使ってきた人々にとって、それは自然な表現なのでしょう。私の場合は残念ながらそうではなかった、というだけの話です。

これは感覚的・生理的な話であって、論理で相手を説き伏せるような話ではないでしょう。わかりあえないようだったら距離を置くしかない。言葉の出自・由来を持ち出す場合でも、自分の感覚を正当化するための根拠付けであるような気がします。

納豆が好きな人に向かって「納豆なんか食うな!」とか、納豆が嫌いな人に向かって「納豆が嫌いなんておかしいよ!」とやり返すのとほぼ同じようなものです(この例は少し説明が必要な飛躍なので異論が出るかもしれませんw)。

嫌い。好き。もうそれ以外にない話です。そして、その好みは時とともに変わることもあります。

私はいつかこのブログで「さて今日はTREKのあたらしいチャリを紹介します!」と書いたりする日が来るのでしょうか。

それは、まだよくわかりません。わかりませんが、そういう日が来たほうが良いのだろう、とは思います。何かを制限していくよりも、何かを解放していくほうが人間は幸せになれるに違いないからです。

この記事を書いた人