「失敗の科学」という本の紹介記事です。2016年末刊行のベストセラーで、副題は「失敗から学習する組織、学習できない組織」。プロサイクリングのチーム・スカイ(現イネオス・グレナディアーズ)で一躍有名になった「マージナル・ゲイン」についても(ほんの少しだけ)触れられている本です。最初に書くと微妙なところのある本で、Amazonでも若干批判的レビューがあります。
著者マシュー・サイド氏はオックスフォード大学哲学政治経済学部卒で、かつオリンピック出場経験も持つ卓球選手でもあったという異色の経歴の持ち主。スポーツ関連では、本書ではチーム・スカイ(デイブ・ブレイルスフォード)のほかメルセデスAMG F1、サッカー選手のデビッド・ベッカムについて少し書かれています。
失敗に関する興味深い事例は豊富
日本語タイトルからも想像できるように、なぜ失敗や事故や判断の誤りは起こるのか、それからどのように学びを得られるのか、様々なジャンルでの事例が紹介されています。それらの事例は、読んでいて素直におもしろい。しかし犯罪関連のかなりキツい暴力的な描写があるので、抵抗のある方にはおすすめできません(暗い気持ちになるエピソードが多い)。
航空産業においては、たとえばパイロットがミスをしてもその人を糾弾して裁判にかけて終わりにしない。かわりに失敗から学ぶシステムが整備されており、そこからのフィードバックをもとに空の安全は非常に高いレベルに保たれている。というのは有名な話ですよね。
一方で、たとえば病院や行政、司法といった世界では失敗から学ぶシステムがうまく機能しない。それは何故なのか。
認知的不協和、固定型マインドセット vs. 成長型マインドセット、ランダム化比較試験、試行錯誤による進化(累積的選択)、マージナル・ゲイン、プロジェクトの事前検死(pre-mortem)といった概念やアプローチを援用しつつ、個人や組織は失敗からどのように学ぶべきなのか・学べるのかが語られている本です(しかし後述するように、この本はタイトルに少し問題があります)。
日本語版のタイトルが疑問
読むのを簡単にやめさせてくれないストーリーテリングな文体で面白く、翻訳もすごく良いなと思いながら読み進めていました。しかし後半からどうも何かおかしい。何かいきなり失速するというか、断片的・断章的なエピソードが増えていき、これは一体何について書かれている本なのだろうと思えてくるのです。
対象を限りなく小さい単位にまで分解した上で各々を1%改善できれば、トータルでは劇的な改善に繋がるという、チーム・スカイの「マージナル・ゲイン」の話についても「えっそれで終わりなの?」という感が強く、しかも「失敗の科学」というこの本の題からすると、そもそもここで小さい改善の積み重ねであるマージナル・ゲインの話が出てくるのがやや唐突です。
ここで気が付きました。この本の本当の主題は「失敗の科学」ではないのではないか。この本は、乱暴に言うと「トップダウン vs. ボトムアップ」あるいは「神・権威・インテリジェントデザイン etc. vs. (英国の哲学者カール・ポパー流の)反証可能なものとしての科学・試行錯誤に基づく進化論」という図式の中で、後者の有効性を強調することが大きい目的ではないのか、と。
そう考えると、試行錯誤としてのマージナル・ゲインの話題が出てきても腑に落ちます。
ここでこの本の原題が気になりました。調べると、もともと”Black Box Thinking”というタイトルの本なのです。直訳すると「ブラックボックス思考」。または「暗箱思考」でしょうか。
この「ブラックボックス」は、たぶん3つの意味があるのではないか。1つは、航空機に搭載されているブラックボックス(本書でも登場する)。分析を必要とする、データと真実が詰まった箱。
もう1つはフィードバックのない世界の暗喩。本書には「暗闇の中のゴルフ」という章があり、フィードバックが得られなければ改善はないことが強調されています。
さらにもう1つ「設計図が神から与えられていない世界で試行錯誤する」ことの比喩。それらを込めたタイトルではないのか。
日本語の「失敗の科学」というビジネスノウハウ本的な雰囲気のタイトルに引っ張られて読み続けると、たぶん「んっ!? これ最終的に何を言いたい本? 失敗についてのおもしろい話はたくさんあるけれど、科学的な方法論としてはランダム化比較試験の話くらいしかないし、俺は何を読まされているんだ…」という気持ちになりました。
しかし、この本がもともと「ブラックボックス思考」というタイトルだったことを思い出すと「なるほど、ちょっとおもしろい本かも」となります。でも「ブラックボックス思考」というタイトルだったら、地味であまり売れなかったのかもしれないですね。
ちなみにこの本の副題は、日本版では「失敗から学習する組織、学習できない組織」となっているのですが、これも英語版では見当たらないのです。調べると英語版でも副題は少なくとも3つあるようですが、組織に関する表現はありません。
- Marginal Gains and the Secrets of High Performance(マージナル・ゲインとハイパフォーマンスの秘密)
- Why Most People Never Learn from Their Mistakes – but Some Do(なぜ大部分の人は自分の誤りから学ばないのか、なぜそこから学ぶ人がいるのか)
- The Surprising Truth About Success(成功についての驚くべき真実)
これらが本書にやや低評価も寄せられている原因ではないかと思います。日本語版の副題を見て、組織論を期待してこれを手にとった人がいると思いますが、組織の話は出てくるけれども、組織改善のための「科学的な」方法論が紹介されている本ではないし、ベッカムのリフティング上達の話も組織論ではないし、肩透かしを食らった人は多いのではないでしょうか。
しかし、日本語の翻訳はすごく読みやすくて良かったので、この混乱は翻訳者のせいではなく出版社のマーケティングのせいかなと思います。
ノウハウ本として読まなければおもしろい
全体的には、読んで時間を無駄にした、とは思わなかったです。紹介されている事例はどれも面白いですし、なぜ自然科学は最近健全な発展を遂げているのに、社会科学は停滞しているのかといった疑問もちょっとだけ解けました。
個人的にいちばん面白かったのが、ユニリーバが粉末洗剤を製造するためのノズルに改良を加えていった時のエピソード。ユニリーバはめっちゃお金があるので、札束の力で流体力学や化学分析といった分野で一流の数学者を集めて、ノズルの性能を改善すべく、数学を使ってノズルをデザインした。しかしトップダウン式の、理論と設計ありきとも言えるこの方法ではうまく行かない。
そこで今度は生物学者のチームに、ボトムアップ式・試行錯誤式・累積的選択式の開発を依頼してみた。既存のノズルの複製を10個作り、それぞれにほんのわずかな変更を加える。そのうち性能が少しでも改善された個体を残し、今度はその複製を10個作り、またわずかな変更を加えて、少しでも性能が良かったものを残す。
それを繰り返したら45世代目ですごいノズルが誕生した、というエピソード。そしてその姿は、数学者が予期しなかったような形態だったそうです。これはおもしろい。
これもマージナル・ゲインと同じ次元での話題だと思います(著者のTwitterを見たら上の投稿を発見、やはりそう書いてありました)。
ツール・ド・フランスで勝とう!と考える時、まず最初に手洗いや部屋の掃除を考える人はそうそういないですよね。でもそれの積み重ねであの結果です。個人的には、そうかマージナル・ゲインは進化論の文脈で考えると面白いのか、とも思いました。進化には設計図がなく、神が方向を定めるわけでもない… そしてこれはもちろんイノベーションにも通じる話。
読んですぐ何かの役に立つノウハウ本の類ではありませんが(進化には時間がかかる)、この本で示されている考え方を知っているか知っていないかで、組織での立ち居振る舞い(特に日本)・プロダクト開発・パフォーマンス改善といった面で大きい違いが出てくると思いました。自分の働いている会社がヤバいのかどうか、もこれを読むと多分すぐにわかります。
▼ 文脈的にとても関係がある本(筆者の感想です)