ほろ苦い思い出の話です。私的な「輪行あるある」のひとつなのですが、ある春の早朝、駅前で自転車をパッキングしている時、どこからともなく現れたおじさんが話しかけてきました。
カッコいい自転車だねぇ…
ホイールをフレームに束ねる手を止め、振り返るとそこには作業用ジャンパーに刺繍の入ったキャップをかぶった小柄なおじさんが立っていました。年齢は60歳過ぎの方だったと思います。
週末の朝六時半に駅前で話しかけてくる刺繍入りキャップをかぶったおじさんは、多くの場合、酔っぱらいか、ホームレスの方か、あるいは酔っ払っているホームレスの方である確率が高い。
そのおじさんはホームレス生活をされている方だろうと私は思いました。酔っ払っているわけではなく、私の鉄製の自転車をしげしげと眺めながら、
オレも乗ってたんだよ、こういうの。むかし。
ええ、そうなんですか? と会話しながら輪行の準備を続ける私。知らない人と話をするのは嫌いではないのですが、自転車をバラしてパッキングしている時はわりと頭を使うので、できれば集中してさっさと作業を終えたい。
でも、おじさんは話がしたい。それが伝わってきました。
川崎競輪の近くに住んでてさ…
とおじさんは続けます。この人は、もしかしたら自転車に乗る人ではなく、ただの競輪好きのおじさんではないか、との考えが頭をよぎりました。でも悪い人ではなさそうなので、作業を続けながら「へぇー、どんなメーカーの自転車乗ってたんですか? こういうスチールの?」などと、タメ口のおじさんに口調を合わせて会話を続けます。
するとおじさんが、輪行袋を展開しようとしていた私の隣から、壁に立て掛けていた私のロードにゆっくりと手を伸ばしました。
自転車を持ち上げようとしている、と思った私はその時、反射的にこう言ってしまいました。
触らないで。
私は知らない人に自分の自転車を触られたくはありません。知らない人、というか、自転車のことをよく知らない人に触られて倒されてしまったり、傷を付けられた経験があるので、思わずそういう言葉が出たのでした。
その時の私の口調は、結構厳しいものだったかもしれません。
するとおじさんは驚いて、とても悲しそうな顔で下を向いてしまいました。
その後も、これからどこに行くの、とか、おじさんは北関東の出身であるとか、少し話をしました。
しかし自転車を袋に入れ終わり、「それじゃ」と言おうと思って振り返ると、おじさんは忽然と姿を消していたのでした。
あのおじさんが本当に自転車に乗っていた人なのか、自転車好きだったのか、それとも競輪が好きなだけの人だったのか。いまとなっては知る由はありません。
はっきりしていることがあるとすれば、おじさんは寂しかったんだろう、ということだけです。
触らないで。と言った時のおじさんの凍りついたような表情を思い出し、私はなんとも言えない苦い気持ちになっていました。
ちょっと冷たかったのではないか。少しくらい触らせても良かったのではないか。おじさんは何年も、いや、ひょっとすると何十年も触っていないロードレーサーに久しぶりに手を置いてみたかったのではないか。
でもやはり知らない人にパッキングした自転車を倒されてしまったら、それはそれで後悔するでしょう。
早朝に限らず駅前でパッキングしていると、高確率で知らない人に話しかけられます。その結果楽しい会話になることも多いのですが、作業の手が止まるので急いでいる時などはもどかしく思う時もあります。
あのおじさん、まだ上野駅にいるのかな。
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