海外の自転車事情に関する社会考察的な記事です(後半が小難しい話になってしまったので、抽象的な話題が苦手な方はトップページから他の記事をどうぞ)。
洋の東西を問わず、サイクリストに対して敵対的なクルマのドライバーはいるものです。スピードが遅い、流れを妨げる、道路の税金を払っているのは俺達だ(※国によってはそうとも言えない)等々、理由は様々です。
しかしそれらはひょっとすると表面的な理由であり、ことアメリカ合衆国に限っては、サイクリストが抑圧を受ける本当の理由は、実はもっと単純かつ奥深いものではないだろうか、と思わされた海外掲示板での議論を紹介します。投稿者は米国の方です。
出典 Going car free and I feel like I’m getting so much push back. Is this common? (In US)
クルマなしの生活をしたい、と言ったら謎の猛反対に
リンク先のスレッドは次のようにはじまっています。
しばらく前から、クルマのない生活をしようと考えるようになりました。クルマを全損してしまったので、遅まきながらでもやらないよりはいいだろう、と考えました。家族にその計画を話すと、めちゃくちゃ反対されました。両親には、お金の節約になることや健康上のメリットがあることを話しました。しかしまったく聞く耳を持ちません。両親は私にクルマを買ってやると言っています。これほど応援してくれる両親がいて自分は幸運だなとは思いますが、この反対意見には心配な気持ちにもなります。友達でさえ、私の決断を疑問視しています。他人は、私がクルマを持っていないことで私という人間(の価値)を判断するようになるでしょうか? デートするのも難しくなるでしょうか? 似たような経験をされた方がいるかどうか、クルマを持たないことはマイナスイメージになるのかどうか、気になっています
これに対し、次のコメントが317件もの大きい支持を得ています。
あなたは社会の規範(norms)に従っていないと見られているのです。誰かが群れからはぐれようとしていると、人々は心配するものです。自転車生活を試してみなさい。そこから学び、必要に応じて調整していけばいい。それがうまく行かなかったら、何か新しいことをやればいいのです。生涯にわたって何か契約するわけではないのですから。
親というものはその時代の産物であり、彼等がこうあるべきと考えているものを大切にしているのだと気付かせてくれる点で、良いものです。私は49歳ですが、両親は私が自転車通勤していることをまだ心配しています。心配してもらって嬉しく思っています。
他にはこんなコメントも。
クルマを運転するということは、現状に満足するということです(status quo)。クルマを運転するという行為は誰も疑問視しませんが、あなたはそこに疑義を唱えてしまったのです。
と、シンプルな内容ではあるのですが、読んでいて「なるほどな!」と思わされました。アメリカでどうもサイクリストが煙たがられているのには、遅いから邪魔だ、俺たちの税金で作られている道を走るな(※という意見は全ての国で正しいわけではないですが)、お前らは石油反対で民主党支持者なんだろう、等々の「理由」があるのだろう、とこれまで考えていたのですが、問題の根っこにあるのは実は「俺たちと違う生き方をするな」という同調圧力であり、その他の理由はどれも後付けなのではないか、と思ったのです。
サイクリストは、アメリカの平穏で変わらぬ日常を脅かそうとする、不安定な要素なのだ… という考えだとしたら、それは映画「イージーライダー(1969)」や「ランボー(1982)」のテーマとほとんど同じです (「ランボー」の場合は国を守るために戦った人間を保守層が追い払おうとする、という点でもう少し複雑な内容でしたけれども)。
現代アメリカにおけるサイクリストは、かつてハーレー・ダビッドソンに乗っていたヒッピーやベトナム戦争帰りの軍人がそう思われたように「社会に不安をもたらす脅威」と思われているのでしょうか。
同調圧力といえば日本が世界一すごいのではないかと思っていたのですが、米国も負けず劣らずという感じがします。
「本物の自由」を恐れる人々
このスレッドを読んでいてエーリッヒ・フロムという社会心理学者の「自由からの逃走(1941・別名「自由の恐怖」)」という有名な本を思い出しました。この本では「消極的な自由(〜からの自由。この記事の文脈ではクルマ支持者と関係が深い)」と「積極的な自由(〜への自由。この記事の文脈ではサイクリストとの関係が深い)」という2つの概念が区別されていて、少しややこしいのですが、Wikipedia日本語版から今回の話題と関係がありそうな部分を引用します。
…義務や責任は社会的な常識や期待に関わることであるが、自分が考える思考、感じる感情や欲求や意思が、社会的に周りのひとから期待される社会的常識などによる思考や感情や意思や欲求で形成されていて、本当に自分自身に由来するものなのかを(本書は)問いかけている。無意識的な欲求を否定し抑圧することで起きている心理的そして社会心理学的な現象についても書かれている。自由から逃避するメカニズムとして権威主義的性格、破壊性、機械的画一などが書かれている。
このうち「権威主義的性格・破壊性・機械的画一」という箇所については、Wikipedia英語版の解説がわかりやすいので以下に抄訳してみます。自転車なんてとんでもない!と考えたり、ロードレイジ(あおり運転)を行う一部のアメリカの人の深層心理として読んでみると納得します。
「〜からの自由(制限からの解放といった消極的自由)」はそれ自体楽しめるような経験ではないため、多くの人は何らかの「安心感」を得られるような思考や行動を発達させることにより、その消極的な影響を軽減しようとするのではないかとフロムは考えた。これは次のものである:
- 権威主義:フロムは権威主義的性格を、サディスティック・マゾヒスティックという両方の要素を持つものと定義している。権威主義者は世界にある種の秩序を課すために、他人をコントロールすることを望むが、同時に人間または抽象的な観念の姿を取った何らかの「上位の力」によるコントロールに従属することをも望む
- 破壊性:これはサディズムとの類似性もはらんでいるが、サディストは何かについてコントロールを及ぼすことを望んでいるとフロムは主張する。破壊的性格の人間は、自分にコントロールできないものを破壊することを望む
- 従属:このプロセスは、自分が属する社会が持つ規範的信条(normative beliefs)や思考のプロセスを、人々が自分自身のものとして無意識に取り入れる時に見られる。これにより、彼等は不安を引き起こす恐れのある「本物の自由な思考」を回避することができる
スレッドの投稿者さんはまさに「自分自身に由来する意思や欲求」に対する、アメリカ社会からの否定と抑圧に直面しているのでしょう。モータースポーツとしての楽しいクルマは話が全く別になりますが、アメリカでクルマという装置が象徴しているものは不安や孤独を抱える米国人の群れを束ねる権威であり、それに対する無意識な従属であり、その目に映るサイクリストは「本物の自由」を積極的に得るため、世界との新しい繋がりを得るために集団から離れていく、羨ましくも認めがたい存在なのかもしれません。
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