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エガン・ベルナルが事故後に初めてSNSで発信:アスリートの成功と神や信仰は関係があるのか

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高速道路で客を乗せようと停車したバス(バス停がない箇所でも任意に停車して乗車させられる道路だったとのこと)に激突し、瀕死に近い重症を負ったエガン・ベルナル。幸い手術は成功したものの、彼の今後のキャリアについて楽観的な見解を口にする専門家は決して多くはない状況です。しかしベルナルが昨日、SNSを更新。自力でメッセージを発信できるようになりました。

ベルナルは次のように、関係者やファン、そして「神」に感謝の言葉を述べています。

自分が好きなことをやっていたせいで、95%の確率で下半身不随になるか、命を落としかけました。今日、私は神と、ウニサバナ病院、不可能ことを成し遂げてくれた専門家の方々すべて、私の家族、マリア・モタス、そして祈ってくれた皆さんに感謝したいと思います。私はまだICUにおり、次のいくつかの手術を待っているところですが、神が全てを良い結果にしてくれると信じています

なぜそれでも神に感謝するのか?

ベルナルに多くの応援メッセージが寄せられているのは当然として、海外掲示板Redditではベルナルのメッセージにある「神」を巡って下のような意見が投稿され、宗教に関するちょっとした議論が発生しています。

話が逸れるのはわかっていますが、神に感謝するこうしたコメントについて聞きたいことがあります。もし神があなたを見護っていてくれたのなら、神はそもそも事故を用意しないようにしておくこともできたのではないでしょうか?

神が95%の確率で半身不随になるような事故に導いておきながら、成功した手術を「与えてくれた」… 本当におかしい話です。神様ありがとう

これに対して次のような批判的意見が見られます。

私は無神論者だが、ベルナルがいま信仰から力を得られると感じているのであれば、それが論理的なものであるかどうかはあまり関係ないと思う。宗教的な人々は、信じることによって自分に悪いことが起こることを防げるとは考えていない。

しかしこうしたことが起こっても、あれ以上事態が悪くならないよう神はある役割を果たしてくれたし、これからの困難な道でも果たしてくれるとベルナルは感じているように見える。そう考えることで彼が感情的にも心理的にも楽になるのなら、彼を全力で支えたい

(上の人に)最初のコメントが失礼で的外れだと思うのはこういう理由です。ベルナルはいま相当厳しい状況にいて、生きていること、歩けるようになるかもしれないことが幸運かもしれないという状況です。こうした状況にいる人について「ロジック」を問いただすのは、自分が論理的により優位であることを示すために弱っている人を蹴り飛ばすようなことで、かなり俗悪なことだと思います

さんざんな目にあった人が回復しようとしていて神に感謝している時、こういうことを言う人をいつも見かけます。ベルナルに信仰を持ち続けさせてあげなさい

コロンビアでは、ベルナルのような信心深い人は”Misteriosos los caminos del señor(神の道は謎めいている)”と言います。

変人ではない宗教的な人々は、神をある種の重力のようなものだと考えている。神は存在し、宇宙全体を満たしており、神の小さい渦巻が量子のゆらぎのように現れたり消えたりすると考えている。祈ることと信仰は、神に何かをしてほしいと期待するというよりも、神の謎めいた計画を感謝して受け入れることに近い

おいおい、この掲示板で他人の信仰に風穴を開けようとしているのかい? 私はどちらかというと不可知論者だが、選ばれたより高次元の力を信仰することで成功を成し遂げている多くのアスリートやクリエイティブな人々、成功している人々を知っている。成功は時に、自分のことを勘定に入れない時のほうが早くやって来るんだ

アスリートと信仰

何かあった時に「神様ありがとう」と口にするのは、日本人である私達には馴染みが薄く「特に深い意味のない慣用句」のように思いがちです(※キリスト教圏の国でも、深い意味なく使っている人も勿論います)。

しかし関係者は勿論のこと、神に2回感謝しているベルナルのメッセージを読み、キリスト教世界における「信仰」の深さと存在感をあらためて感じさせられました。私自身もキリスト教圏で、自分より高位の絶対的な力・超越的存在を信仰することで、生活や精神面で巨大な安定感を得ている人々と多く知り合いました(正確には神のいない世界を想像するのが彼らには難しい)。

そうした人々は、遊び盛りの20代でも週末には必ず教会に行ったり、行かなかった時は罪悪感を感じるとも言っていました。宗教は(キリスト教に限らず)それだけ深いレベルで日常の基礎になっているのですが、キリスト教世界におけるアスリートの強さと信仰との間には、最後に紹介したコメントのように何らかの有意な関係があるのではないかとも感じています(ただの感想です)。

宗教に限らず、何かを信じている・信じられる何かがある、ということが強さをもたらすのでしょうか。私は無宗教ですが、ベルナルと同じ強さで何かを信じているだろうか。もし自分がベルナルのような状態に陥ったら、何かを信じることなしに前向きであり続け、現実を受け入れることはできるだろうか。などと考えたりしました。

著者
マスター

2007年開設の自転車レビューサイトCBNのウェブマスターとして累計22,000件のユーザー投稿に目を通す。CBN Blogの企画立案・編集・校正を担当するかたわら日々のニュース・製品レビュー・エディトリアル記事を執筆。シングルスピード・グラベルロード・ブロンプトン・エアロロード・クロモリロードに乗る雑食系自転車乗り。

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